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後藤大祐『誰もいない闘技場にベルが鳴る』

――生きることは、得なの、損なの?

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は木曜日。今日わたしたちが読む詩集は後藤大祐の『誰もいない闘技場にベルが鳴る』。著者は一九七九年生まれ。二〇一六年『詩と思想』の「現代詩の新鋭」選出(なお、同じ年に選出された詩人には橋本シオン(#0013#0032)と横山黒鍵(#0015)がいる)。本書は著者の第一詩集であり、二十八編を九十二頁に収める。

さて、それでは読みはじめてみよう。
「スカイロック」から。

あなたは
たくさんの罪なき人々を殺してきたのは
権力者ではなく、それにしたがう一般人たちだ
という

あなたは、ぼくのことを、組織への迎合者
と、暗に非難している

確かに、人を殺すのは、いつも
ぼくのような普通の人間だ
あの日、ガス室の重たいドアを閉じたのは
ぼくだった
そう、間違いない

ぼくは、生きていくため仕事を探していたとき
漠然とした将来への不安に耐えられなかった
仕事が見つかったのち
ぼくは、強度のアルコールを摂取し、眼を閉じて
道路で自分を殺そうとした、死んだはずだった

でも、何人かの人が、
この命を、生き永らえさせてくれた

それから
ぼくは見てきた
たくさんの人が
大事な持ち場をきちんと守っていること

ぼくは見てきた
たくさんの人が
できるだけ心をこめて仕事をしようとする
誰かのために働くことは、人が存在する理由

組織に属することは恥ずかしいことではない
そんな風にやっと思えるようになり
そして、ぼくも働いてきた
おぼつかない足取りで、橋をそろそろ歩みながら
何度か心からうれしい
と思える成果もあった

仕事っていうのは大変
だけど、一度腹をくくったら
何でもこい、と強い気持ちにもなる
権力や組織は強い
誰かに罪を犯させながら
あなたのように
自分は罪を引き受けたくない、ということはできない
責任ある立場を任せられながら
善人のふりをしていることはできない

だから名乗り出る、
そう、世界の各地で貴重な原生林を焼きつくしているのは
ぼくだ
欲望のおもむくままに、オゾン層に穴を開けたり、
いくつかの美しい島を水没の危険にさらしているのは
ぼくだ

「スカイロック」第一〜十連

「あなた」と「ぼく」が語り手として導入されている。詩においてしばしばこれらは同じ語り手の複数の貌を指し、同じ魂のなかにいる相反するものたちを示唆する。すると読むべきなのはそのふたりの対立ではなく、その対立によってなにが明らかになっているか、なにがかたられようとしているか、ということだろう。

「組織への迎合者」は、特定の組織(会社、学校、地元共同体、特定のグループ内派閥……)の論理ばかりが優先され、個が個として生きることが軽視される社会に住まうわたしたちのことで、「ガス室の重たいドア」はアウシュビッツのそれというよりは、自分たちと無関係なものがまとめてしまい込まれ捨てられる排除のための仕組みスキームにつけられた鉄扉のように読める。本邦においてその扉には「外国人」や「よそ者」や「空気を読まない者たち」というラベルが貼られており、二〇一八年のわたしたちはそうした排外主義が全世界でじわじわと広がりつつあることを知っている。

だが、なぜひとはそうなるのか、なぜそうなってしまうのか? その答に後藤は「不安」を挙げる。それも「漠然とした不安」である。漠然とした、とくに理由のない実存に関する不安、それが「普通の人間」を権力または組織に従属させ、罪のない人々の殺戮に過去に走らしめ、現在も走らしめており、これからも走らしめる、と詩は示唆する。

詩の語り手は自殺を試みたことを契機に、「組織に属することは恥ずかしいことではない」と考えるようになったという。そこにはひとがだれも不安から自由になれないからであり、そんなことはえいえんに不可能だからであり、わたしたちのうちに内在する欠陥がわたしたちに罪を犯させてしまうからだ、という気付きがある。

するとわたしたちは組織に所属するほかなく……結果として、「ガス室の重たいドア」にかならず、、、、加担することになる、と読める。詩の見つけ出した結論に、わたしたちは戦慄し、そしてしずかに首肯せざるをえない。

ライブハウスの暗い、後ろの目立たないところで
かすかに肩を揺すらせている
黒いTシャツとジーンズに
ステインレススチールのウォレットチェーン
をじゃらつかせている
誰かが笑えばそれに応えて笑う
たまに片手を挙げて賛辞のジェスチュアをする

自分で死ぬほど努力したことはないが
ひとが作ったものの欠点はすぐに見つけられる
イェスもノオも明確にしないことが
美徳だと思っている

そういうものにわたしは
なりたくない

正確にいうと
わたしは、そういうものだったが
もはや、そういうものに戻りたくないのだ

「そういうものに」全文

後藤の詩からは倫理ということばを思い浮かべる。その倫理とは、表面上は清潔にみえる自分の手はじつのところひどく汚れているのではないかと自問することであり、あるいは、いつの間にかひとを傷つける側に立っているまたは立ってしまう自分の姿を真正面から見つめるような、そんな姿勢のことだと読める。そこにあるのは、「そういうもの」になぜ、、そうなってしまうのか、という問いである。

「自分で死ぬほど努力したことはないが/ひとが作ったものの欠点はすぐに見つけられる」そんな者たちが集まる風景のことを、現在のわたしたちはよく知っている。それはひとの負の感情を増幅し拡散する電磁的ネットワークの爆発的な拡大とともにあらわれた、断片的で突発的な幾十億の投稿によって支えられるテキストによる球体であり、前世紀には存在しなかったものだ。

そのような場が前景化した時代においてあからさまな「賛辞のジェスチュア」をすることや「誰かが笑えばそれに応えて笑う」ことはいっそう強制力をもつものとなり、携帯端末の普及によって、ひとの顔色をうかがうことが、文字通り二十四時間(場合によっては寝具のなかにまで)わたしたちを拘束するようになった。

だが詩がいうように、じつのところ、多くのひとは「そういうもの」になりたくないとひそかに思っていると思う。だがいつの間にかそうなってしまう。そんな「そういうもの」を作っているのは、むしろ自分だからではないかという気づきがそこにある。「わたしは、そういうものだったが/もはや、そういうものに戻りたくない」とは、つまりいつでも戻りうるという残酷な認識がそこにあることを示唆している。

◇ ◇ ◇

題名について少し。二十世紀初頭のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの演説 “The Man in the Arena” から取ったことが示唆されている(詩集の中に演説の私訳が挿入されている)。 “Arena” は、「スポーツ、興行、その他催し物が実施される空間。人々が周りで鑑賞するための席が周りに設置されている」もので、それが「闘技場」と読みかえられている。

だがその闘技場には戦う相手はおらず、しかも観客すらいない。ベルを鳴らすのはだれか。そしてベルはなんのために鳴らされるのか。そういう問いがなんのために書くのか、だれのために書くのかという問いとかさねられていると読める。

本詩集でもっとも好きな詩は、「死体をタクシーに乗せて、」を(次点は「塔」)。
ウォルトはアメリカの詩人ウォルト・ホイットマンだろうか。都市生活者の愉しく、そして死体のころがる生活。だがわたしたちにあるものはこの現代の、民主主義の、先進国の、うつくしい都市たちだけであり、わたしたちにあたえられた舞台アリーナはここだけなのだ。

ここで生きる、それを引き受ける、こころから信じられない「死ぬほど楽しい」生活を送りながら、そして「それは損なの?、それとも得なの?」とつぶやきながら。

死体をタクシーに乗せて
祭りのようにすすむ
はずむ街を
ネオン輝く黒いセダンが通る

キミがいい気分だから
ボクもまじ最高
肩に手をまわせば、ほら
口蓋骨から、ピューと笛がこぼれる

街に、地面から、昼にしみ混んだ熱が立ちのぼる
地下道の入り口や出口、ビルディングの谷間や
ナイトクラブの階段から

ある夜には、戦争に酔った青い若者たちが
交差点を占拠し、ニュースの見出しに切りとられた
ある夜には、ペットショップの前に立ち止まった
女装趣味者ウォルトに首相の甥が声をかけた

いつも通り、混雑する高架下のロード
タクシーが急ブレーキを踏んだ
車線変更で割り込んだハイヤーがクラクション
はじけるシャンパン、道路に落ちたコルクをひろうのは赤い鼻のボーイ
ほら、キミがほほえむ

死ぬほど楽しい、キミもそう?
何があっても、ふたりなら平気
キミのむきだしの鎖骨をつつく、木製バットの感触
キミはほんとうにかわいい、ほんとだよ
ほんとだって 笑

スーツ姿の男たちが天を指さし、通りすぎる

忘れたはずの、旧時代の大きな亡霊が、この地上を覆いはじめている
そんな東京地下鉄道の破られた車内広告の中で、勤労者の汗と涙が混じりあって泥となった、東京湾の埋め立て地の突端で、一人のカッパ、ボクが、日がな一日、釣り糸を垂れている
父王は年金暮らしに入り、政治に倦んだ兄王は、月並みなハイリスク証券トレードに興じている、ボクはあいかわらず、一人で途方に暮れている。この、バケツ一杯に釣れた外道をどうしていいか分からないんだ

キミの黒いドレス、きれいだ、とてもよく似合っている
どこで買ったの?
いくらした? いくらで売れる?
キミの白い肌
愛らしい表情をたたえた、空洞
まじ最高
分かってたんだ、キミ、性格悪いけど、最高にセクシーだ
ハハ、通りすぎる穀物がこっち見てる
交差点はもうすぐ、一緒に渡ろう、今度もうまくいく

忘れたはずの正義感が、目の前のテーブルの下で鳴動しはじめている
アテンション! プリーズ! モット、モット、気持ちいいコトシタイヨ、権力構造の最上階に立った猫の王様が、イチ、ニ、号令! 快感のあまり失禁してしまいそうだよ、そして百万人の老いぼれた陸軍歩兵連隊が、またぞろ月並みなウソを真に受けて、大好きな集団行動を始める、ミスター世間知らず、旗色をもたないお人よしの薄い魂たち、ボクもその一人だ
忘れたはずの、たった一つの恐れが、なだれをうって、出口に殺到する、それは実際にあった話でした、手を叩いて、キミは喜んでくれたよね、あとには遺体の処理事務と、瓦礫解体の仕事しか残りませんでした、人工的に臓器が再生されたニュース、つぶやきの上でかわいらしい足をバタバタさせながら、あの時、濡れた眼の奥には閑散とした安映画館のくすんだビロードの緞帳がガラーンと映っていました。捨てられたオレンジの皮と、真紅のコカ・コーラの空き缶と、重戦車部隊が、あの桟橋の上で、あるいは大聖堂の前で、教皇の義理の娘がおそろしい叫び声を上げたとき、そう、ライトオン! 強力な炎を、燃え上がる藁の十字架を見つめながら、魂のない子ども十字軍たちがコンスタンティノープルを奪還する、それは、不安と名づけられた大きな黒馬で、たくさんの人の魂らしきものが、その太いタテガミの一本一本にかろうじてぶら下がっていたんだ、振り落とされた無実の骨の畑を踏みつぶしながら、カッテニオリナイデクダサーイ、古代から進み続けるそれは具体的な形をとり、おぞましい笑顔で、ボクら自身の影を照らしだした、24時間、レイモンドのコインランドリーで、ファストフード店のケチャップに汚れたままのボックスシートの上で、次の朝には女魔がおまけの景品トイを片手に、無邪気に赤子をあやしながら、ねえ! 聞こえる?
資本主義って言葉知ってる?
それは損なの?、それとも特なの? って?

「死体をタクシーに乗せて、」第一〜十連

(2018年11月8日)


後藤大祐『誰もいない闘技場にベルが鳴る』書籍情報
誰もいない闘技場にベルが鳴る
出版 土曜美術社出版販売
発行 2015年
著者 後藤大祐(ごとう だいすけ)
価格 1600円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

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