岡本啓『グラフィティ』

――アメリカを、すがすがしく、わすれる。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は水曜日。今日わたしたちが読む詩集は岡本啓の『グラフィティ』。岡本は一九八三年生まれ、宮城県出身。二〇十四年に『現代詩手帖』投稿欄の年間最優秀作品に与えられる現代詩手帖賞受賞。同年刊行した本第一詩集にて中原中也賞、H氏賞ダブル受賞。二〇一七年には第二詩集『絶景ノート』を上梓、第二十五回萩原朔太郎賞を受賞している。本書は毎月投稿されたという詩十二編に、書き下ろし一編を加え、これらを百六頁に納める。

さて、それでは読みはじめてみよう。
巻頭の書き下ろし詩「コンフュージョン・イズ・ネクスト」から。

肩のあまったシャツ
もたれかけた指をはなすと
頬にニュースのかたい光があたった
あっおれだ、いま
映った、いちばん手前だ ほらあいつ、ほら
いま煉瓦を投げつける

きみは興奮しながらスープの豆を口に運ぶ
母親がひたしたスープ
煙がくるなか、担架を 肌のちがう二人が持ちあげて
走りさる

こんなちいさなふやけた芯が 四肢を一日燃やすのか
舌で こうやって
怒りの殻を 剥ぎとってくと
一粒のおののく歌もおれにはない
おれは恥ずかしい、いまも
ショーウィンドーを どうしようもなく
たたき潰したい
こんなこと、あっていいのか
ヨウナシ、においはしない
拳に似た、輪郭のほか なにもない

ちがう
ぼくが言う くだけちったガラス
あらゆるものが萎れるんだ
ほんとうに宇宙は
なにもない
一人の女から産まれて
ここにいる それじたいが 暴動だ

「コンフュージョン・イズ・ネクスト」全文

この詩は巻頭におかれているが、題名はかくされ、巻末目次を見ないとそれがわからないよう配置されている。

「Confusion」は英英辞典によれば、「いま起きている事象が理解できないこと、とある事象が曖昧で理解できないこと」や「ある人物または物が、別の人物または物であるかのように誤解してしまう状況」とある。それが「Next」(同じく、Aに後続するB、Aに隣接するB、Aを置換するB)にかさねられている。するとこの巻頭詩のネクストにつづく十二の詩は、そうした混乱を指し示しているのだろうし、それは投稿がすべて終わってから後付でつけくわえられた、いわば自作の注釈であると読める。

本書は著者がアメリカ滞在時に執筆されたという。混乱とは、日本人でありながらアメリカにいること、自分がこの世界に所属しているのではなく、どこか軸のずれた位相にいるかのように感じられるその齟齬を意味しているのではないかと思う。

そのずれはたとえばサイズのことなる「肩のあまったシャツ」であり、母国語によるものではないであろうニュースであり、「肌のちがう二人」に自分も含まれるというよそ者の意識でもあり、暴動を遠く安全な場所でどこか怒りながら(母の準備した料理を食べながら)テレビで見る姿のどうにもならぬ遅延でもあるのだろう。そこにはどこか身近な混乱があり、たしかにわたしたちのものでもあるような気がする。それはアメリカー日本(英語―日本語)のじつのところきわめて複雑な心理的(政治的、軍事的、経済的……)関係を指し示しているようにもみえる。

その混乱は一人称と二人称にもあらわれ、それぞれの詩連で「おれ」「あいつ」「きみ」「ぼく」がめまぐるしくかたりつづける。語り手の怒りにはどこか共感するものがあるが、その怒りの理由は注意深くかくされ、なんらかの具体的事象に基づいているはずのニュースの詳細も除去されている。あるのは「おれは恥ずかしい、いまも/こんなこと、あっていいのか」という特定の感情の強度がみえる行だが、傍観者であることが恥ずかしいのか、それとも別の理由があるのか、それもかたられてはいない。理由など必要ない、と著者なら、あるいは詩ならいうかもしれない。

ひとつはっきりしていることは、暴動は不可能であると詩が知っているということだろう。つまり「ここにいる」ことはほんとうはできないことがかたられている。その不能性へのいらだちは、アメリカではなく二〇一八年の日本に居住するわたしたちがよく知っているものだ。

ヨウナシ、がカタカナで書かれていることも印象に残る。

掃除機が鳴っている
礼拝堂のなか
つるつるした木の背もたれ、お尻のところ
どの椅子も
そこだけニスが剥げている
きっと月曜は毎週そうしてきたんだ
Tシャツごしに
せなかの脂肪をゆらすかれは
こちらを気にとめない
すすり泣きよりも乱暴なひきずるしかた
そっけない、でもやっぱり
血がかよってる
靴のなかで指がぎゅっとまるまる
すみきった
ひときわふかい断層にみとれた
だけど
ざらつくおとのほか
なにかきこえていたか

ケイ
なあ知ってるか、祈るということ
スターバックスの
なみなみとつがれた紙コップ
あんなふうに、ひとは持ちあるく
こぼさぬように首のうしろをかたくして
別れの記憶
うかがい知れぬこと
舌にのこる髪の毛のような
一本の針金
いつだったか頬のうらにあたるその一本を
はきだそうとして
落ち葉のいいにおいがした

枝がふっと折れるようにちからがぬけて
この肺もやぶれること
これは知ってる
だから輪郭を
はっきりさせてしゃべりたい
けだるく
視線のとどかない午前中
ひとりでかれがきれいにしてる
まっすぐに床にならべられている、古い椅子
だれかがここに腰かけて
木の温度でたちさった

「椅子」第一、二、三連

巻頭詩から本編へ。ここからはアメリカで十二ヶ月かけて書かれたという詩がおさめられている。たしかに十二本の詩はどこか旅行記めいており、見たことがないものを見たときの驚きや、喜びや、感動が散りばめられているように感じられる。

詩をみると、「椅子」では祈るための場所としての椅子がかたられる。祈りがくりかえし行われていること、しかもそれが当たり前のように日常に組みこまれていることを、書き手は椅子のニスが剥げていることから発見する。その祈りの現場をだれかが定期的に掃除しており、それを詩はみつめている。

「なあ知っているか、祈るということ」は、著者がだれかにいわれたことばだろうか。とても魅力のある一行だ。祈るということがどういうことかわたしにはわからないが、ひとには祈る場所が必要であり、その価値を知っている(と信じる)ものがこの世界に存在しているということが、わたしのこころをあたたかくする。

掃除機の音、がくりかえしかたられる。それは記憶のなかの場所を整理しいらないものを分別する様子なのかもしれないし、そこから体温を残さず(あるいは体温をえて)立ちさっていっただれかの姿をきれいに保とうとする動きを指しているのかもしれない。

個人的には、祈りがスターバックスの紙コップをもって移動する様子になぞらえられていることをおもしろく読んだ。祈りとは、手のうちにある飲みものをこぼさないよう、注意深く歩くことであり、その程度のものでよいのかもしれない。だがそれは、きわめてむずかしいことのようにも思えるが。

ぐっと踵をあげてとどくところ
のほんの少しさきから
目一杯
おっきく花を描いた、いくつも描いた
白で消して、そこに言葉をかいた
スプレーで
ざらついた壁にむかい
一つ消してはつぎの火を、放つように描く
おそろしさ、すくむこと
懐中電灯と銃
いつ照らされるか、恐怖が
つまさきからあがってきて
たかぶる瞳
落書きに埋めつくされた
この、壁のまえに立つと
おまえのたかぶる瞳が目にうかぶ
いったい、そのふるえ、激しい鼓動
それがいつかこの脈拍と
重なりあうことがあるだろうか
イーストリバーに沿った倉庫跡
あざやかに残るのは
乾きおえる間際にたれた、オレンジと青
煉瓦をゆっくりさわる
ここにあるもの、殴り書きでさえ
ここにあるものと、ありえたもの、その
揺らぎに身体ごと奪われる
だれかがいつか忘れていった声に
ふるえる瞬間がある
蛍光色でさけぶ
汚れたアルファベット
下が透けて見えるわけじゃない、ただ
なんども消すことで、たしかに、ほんの少し
分厚くなった

電線に、スニーカーがぶらさがってる
とりにくる人のないあれを
だれが結んだのか
にぎり拳のようにあんなに固く
知ってる、五階の暗い廊下のおく
結び目に爪をくいこませて
おしひらこうとする、一人の
父の、一人の母の、涙をためた顔があり
つかのま、また重なる
だれだか知らないおまえ
だが国籍も名前をべっとり貼りついた
双子
突きとばす、へその緒が絡まってるのに
とどかない、でも
あの五月のひろびろとした緑の公園
そこで、祝福をうけてる花嫁だって
むかいあえば双子のはずだ
レキシントン・アヴェニュー
地下からあがるぶあつい湯気につつまれて
ひとびとの、交差する、息が、またひとつ
またひとつ、すりかわり
クラクションに、呼び止められる
赤信号を抱きしめて
立ちつくすアーミージャケット
ぶかぶかの払い下げをかぶった中年が
週刊誌にしがみつくテントウムシの写真を
ちいさな火だとおもって
息をかけてた
いつかまたどこかで、この光景を目撃したとしても
その時も
一つも可笑しいとは思わない
十一時も過ぎたのに、アフロの女性たちが
リズムボックスと
オルガン、ギターにラップをのせてる
夜食のサンドイッチにかぶりつく
中学生ぐらいのすごい若いこも混じった
ファミリーバンド
自分たちのほうがぜんぜんおどり狂って
コートをゆすって跳ねて蒸れて
あったまる
わずかにふるえる唇からは
たえず言葉
ブルー、その甘い単語が外気にぶつかり
白くなると、ふいに
血と精液の混じりあう瞬間があって
彼女たちの死んだ親戚たちの顔もみえてきて
すごくセクシー
血も息もうすめたりはできないから
すごく生きてる
くだける音を録ろうとして
屋上から煉瓦をはなした
無音で落ちてくそれを見つめながら
毎晩、街灯に照らされても
決して落ちていかない
あのスニーカーを考えていた、ほんとに
何を聴くべきか考えていた
描いては消していく、日々のあわいに
ひととき晴れわたる夜空
ただわずかにそこに
聞きとれない言葉がある
あそこの地面には
一つだけちいさな影が落ちてる
だれが、輪郭の消えた
若いからだをおさめる柩を組むのか
壁に沿って
走りさったのは影
弟、おまえが
吹きつけていたのは苔だったか
あるいは壁の層に
埋もれていた花だったか
とつぜん、はっきり聞こえた
言葉をふかく柩にしろ
そう聞こえた
単純に
ぼくは言葉で木をつくりたい
言葉で、釘とノコギリを
飾りボタンと、もっとたくさんのボタンと
たくさんの写真と、スプレー缶と、花と
これらを燃やす
火を
手さぐりで書きとめた文字は
灯りのしたで形がなかった
でも意味のほどけた線をなぞると、そこに
一瞬だけ
澄みきった夜の砂漠がみえた
だから

「グラフィティ」第一、二連

題名ともなった詩。グラフィティとは壁の落書きのこと。「公衆施設の壁、扉などにえがかれた、とくにヒューモアのある、わいせつな、または政治的なメッセージを含んだ落書き絵」を指す(タイトルからはプリンスの「グラフィティ・ブリッジ」を連想したが、それはおそらくわたしの世代のせい)。

語り手が落書きをする姿がえがかれる第一連。
花をえがいたあと、「白で消して、そこに言葉をかいた」とある。一度えがかれたものを白で上書きし、そこにあらたにことばを書いてゆくこと。グラフィティをつくる作業が書く行為になぞらえられているのだが、よく読んでみると、まず最初に、一度えがいたものを削除するという行為があることに気づく。

順番としては壁があり、そこに花をえがき、白で抹消し、最後に文字が書かれることになる。壁に下地としての白をつくるのはおそらく手順として一般的なのだろうと想像するのだが、花をえがいて、消す行程がふくまれているところに謎があり、おもしろさがある。

わたしはこの花はたとえば華美なるもの、わかりやすいものであり、それをみずからの手で消しさり、あらたに言葉というもっともわかりにくいもので書いていくことが自分の手法なのだ、という決意表明のように読んだ。「なんども消すことで、たしかに、ほんの少し/分厚くなった」も、かさねられた意思の固さを示しているように見える。

「ぐっと踵をあげてとどくところ/のほんの少しさきから」という姿勢からは、より高いもの、優れたもの、よりうつくしいものを求める少年のまなざしが連想される。そしてそれは消すこと、書くことのはてしないくりかえしの後にしか訪れないという示唆がある。

第二連。
スニーカーがぶさらがっている。その直接的描写はないのだが、おそらくそれは一組、つまり二足の靴であり、それが紐で結び合わされたまま、電線にわかたれ、風に揺れているの様子を想像する。ぶらさがりながら、けして落ちてわかたれることのない、かたくつながれて(しまっている)ふたつの靴。そのふたつの靴はアメリカと日本であり、英語と日本語であるのだろうと読める。それは父と母、兄と弟、双子の関係性ともかさねられている(ただ父は複数、母は一人であるという示唆もあり、その部分は非対称的)。

第一連で書くことの行為についての書き手の意思がえがかれていた反面、第二連はことば、母国語についてかたっているようにみえる。あるいは、なぜ、、書くようになったのか、という個人歴な著者の来歴について。

「くだける音を録ろうとして/屋上から煉瓦をはなした」は単に職業的な作業(たとえば、映画製作における音響担当者)のようにもみえるが、それがいつまでも落ちることがなく、けしてわかたれることのない一組のスニーカーになぞらえられていることに注目する。さらにそこから「何を聴くべきか」とつづけて自問する語り手の姿には切迫感があり、なにか重大なものがここで掴まれている興奮がある。

もちろんそれはくわしくは明らかにされないしされる必要もない――といってしまうと不親切すぎるので、こういいかえるべきかもしれない。わたしたちは詩を誤読、、してよく、みずからのそれぞれの人生における重大な気づきや発見に、第三者の書いた詩を引きよせ、かさねあわせて読んでよいのだ、と。

第二連の終盤、つくってから削除することがふたたびえがかれる。今回それは木をつくる、釘をつくる、ノコギリをつくることなどとかさねられ、そして燃やされる。燃やされたあとにのこるものは「意味のほどけた線」とかたられる。それは事象から言語という意味のラベルをいくら剥ぎとってもそこにはなにもないということでもあり、じつのところわたしたちはなにもあたらしくつくることなどできないのだという理解と諦念でもあると思う。だが、そこには澄んだ爽やかな夜風が吹いている。「だから」は、明日の方角へと手渡されたメッセージなのだ。

この詩は引用されていない最終連の第三連において、語り手をふたたびグラフィティのある倉庫へと立ちかえらせている。第三連でえがかれる朝の風景は、だれも分断や混乱から逃れられないということが了解されながらも、この詩集でもっとも希望にみちたものだと思う。

◇ ◇ ◇

この詩集でもっとも好きな詩は、「グラフィティ」と悩んだが、「8.28.1963」を。
一九六三年八月二十八日は、マーティン・ルーサー・キングの有名な演説「I have a dream」が行われた日だと思うが、演説が行われたワシントンを訪れた時のことをえがいた詩なのではないかと想像する。「そのとき/のこったもの/それは なかば/すがすがしくうしなわれた場所」……という四行がとても好きでとりあげることにした。

わたしたちはみなそうした場所を持ち、すがすがしく、わすれるほかない。

エレクトリックギター
むしあついガレージのなか
よろめいて
いきなりふみならす
まだここにしかないおどりかた
あごを水滴がおちる
目で合図し、おしりから片足ずつ はねあげて
地平を
ふみちがえてく
かれの五十年まえのはなしだ
ぼくはうまれてなくてどこにもいない
あの日は それからつれだって
ワシントン・モニュメントのほうまで演説をみにいった
めのまえ
蚊がおんなの黒い肩にとまって
おぼえてる
すっぱかった すごいひとで
おれは息があがってた

ふいのほほえみで 呼びとめられたとき
この目玉は かるくて
ぎこちなくはなかったか
ぼくは、だれにでも
くったくなく 話しかけることができる、かれが
その歳にして孤独かどうか しらない
ただかれだって
まるでヒマラヤの万年雪をふむように
それからずっと
かすれた息を

してきたわけじゃない
この呼吸
とふるえるひざのほか
はげしくおいかけてくるものがなかった夏の日
陸橋のうえから
からだごとフェンスにあずけると
金属の あみものは きりきりとのびていく
枝わかれしたおもたいからだ
そのすみずみに、瞬間
風がふきあがり、さかさまにひっかかったぼくから
だれかが
窓をとりはずしていった

そのとき
のこったもの
それは なかば
すがすがしくうしなわれた場所
その、おいしげる草のなかでみつかる
まっすぐな
廊下の板
このとまどいは
風になびく
だれのこころから、ひきはがすことができるのか

「8.28.1963」第一、二、三、四連

(2018年11月7日)


岡本啓『グラフィティ』書籍情報
グラフィティ
出版 思潮社
発行 2014年
著者 岡本啓(おかもと けい)
価格 2200円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

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