カニエ・ナハ『用意された食卓』

――さあ、わたしたちのあたらしい食卓へかえろう。

◇ ◇ ◇

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本日は火曜日。今日わたしたちが読む詩集は、(#0024)にても取り上げたカニエ・ナハの『用意された食卓』。著者は一九八〇年生まれ。本詩集は私家版として二〇一五年に発行され、第二十一回中原中也賞を受賞した。わたしの手元にあるのは翌年に再発行された青土社版で、二十五編を百四頁に納める。

カニエの詩の場合、直接的にかたることがおもしろさを損ねてしまう、あるいはそれが読みを限定化し、読者から誤読の愉しみを奪ってしまうだろうということをつよく感じる。そうしたことに留意しつつ、短いものから取り上げてみよう。

「世帯」から。

帰還した
そこに外観はなく
誤った情報を信じて
路上では人々の戦争が続いていた。
覚えていない隣人の、
生活の中に存在している、
自分から分離した
新しい家を残して、
撤退する、あまりにも
私たちは沈黙の中で
十数年、慈悲の一つ屋根の下で
安全だと信じ続けた唯一の
地球の言葉を忘れないように
覚書としての
火傷は腕の中で苦しんで、
嘆願の最後で
人は
共感を拒否された。

「世帯」全文

題名の「世帯ハウスホールド」からは、夫婦の所帯ではなく、幾千万のイエであり、住居であり、単身者たちがそれぞれ住まう箱としての居住空間をイメージする。

帰還、外観、路上、戦争。少し離れてみると色濃くみえるのは不穏な空気、それも「安全だと信じ続けた唯一の地球の言葉」がやがて裏切られることがあらかじめ予想されている、いや、了解されている空間がえがかれている。

二〇一八年、こうした空気はわたしたちにとって身近なものとなった。より具体的にいえば、感情増幅器であるソーシャルメディアを通じて、ことばの暴力があらゆるところに蔓延し、それに煽られた実際の暴力行使が次々と連鎖し、アメリカで、先進国で、そして日本で、堂々とあるいはひそかに負の感情がくすぶりつづけている――そんな風景がすでに二〇一五年の詩にみえる。

個人的なことをすこし書けば、カニエの詩を読みながら、わたしはゼロ年代のことを思い出す。インターネットにおける悪意の伝播のおそろしさは、当時からすでにかなり問題になっていたが、それはコップの中の嵐に過ぎなかったし、ここまで現実が侵食されるとはだれも予想していなかったということを思う。たとえば米国のトランプ大統領のような扇動家マニピュレーターたちによって悪用ハッキングされることをプラットフォームを作った側が想定していなかった、ともいえるのだろう。

詩に戻ると、「慈悲の一つ屋根の下で」も印象深い行で、それはばらばらになったわたしたちがかつて住むことができた(と、信じることができた)共同体帰属意識を指し示し、もはやそうした大きな物語をまったく信じられなくなったわたしたちの姿が読める。そのあたらしい現実においてはわたしたちは隣人のことなど知らないし、「誤った情報」を信じて、あるいは誤っていることを誤っていることと認識するすべを奪われたまま、みずから進んで分離を望んでいる。

「火傷は腕の中で苦しんで/嘆願の最後で/人は/共感を拒否された」のはなぜか。火傷はかくされたものであり、あるいはかくさなければならないものだと傷を負った当事者が考えたからだ。ばらばらになったイエに閉じこもるわたしたちからは、共感をする能力や、あるいは他者を慮る余裕は剥奪されており、結果として共感または理解は拒否されてしまうと読める。わたしたちがよく知っているいまそこにある光景がえがかれている。好きな詩だ。

驚くほど小さい虫が
口をこじ開ける
破片が散乱する
激しく混合する、
風景の明るい歴史を
再現しようとしている
同じ時間燃えて
無数の死者が
上昇し、燃焼する隣人と
瞬間(瞬間)を
イメージから離れて逃げた
引用された通路に、決死の
子供たちが凝視されている
まもなく通過する
より深く傷つける運命を
追跡するために来て、
さらに多くの残酷な
他者の時間は、
水を費やしてきた
夜の真ん中にいた時、
死滅する

「家主」(P28-P29)冒頭部分

ふたたびイエについて、あるいはイエに住まうわたしたちについての詩。「まもなく通過する/より深く傷つける運命を」や「風景の明るい歴史」といったことばがあらわすきわめて不吉なものたちに背筋がやや冷える。そうした不吉なものはイエの中で起こることだという示唆があり、孤立無援の弱者たちのそれぞれのイエのなかに閉じ込められた子供たち(または大人たち)が連想される。戦争、のイメージがあるが、もっとプライベートな、暴力がふるわれる現場がえがかれている印象をもつ。暴力をふるうのは強者ではなくむしろ弱者であるということを思い出すとき、「さらに多くの残酷な」ものたちがこれからさらにやってくることは明らかだ、と詩はかたっている。予知している、といっていいかもしれない。

詩集の題名『用意された食卓』はなにを意味するのだろうと考えたとき、こうしたイエのことが頭に浮かぶ。それは食事がすでに用意されているのにもかかわらずそれを愉しむものはだれもいないイエであり、あるいは衣食住が完備されているのにだれも幸せを感じていないイエの集合体の場であると読める。かつて、そこには食事が用意された食卓があった、とも読める。わたしたちはイエを喪失した家主なのだ。

(いいえ人間に心はありません。)
金属音で目を覚ます
ひたいの赤い傷
地面に押し付けられ
警告される。
一晩の塔を登る
ための恐れに
眠ることが許されず
一幕の
樹皮がはがれ、
暗闇の中で泣いている
かつての頭を上げ
森の中に消えた、
切断された
体は、汚染されていることがわかったので
攻撃されない
という考えに
起因する罪悪の
味を占め
悲劇の直前まで
むさぼる

「野道」全文

野道、は、ひととひとの間にできる道だろうか。「攻撃されない/という考えに/起因する罪悪の/味を占め」ること。安全な場所から石を投げつけることの愉しみ、弱者に対して石を投げつける愉しみがかたられる。そこにひそかな罪悪感があることは間違いないが、それでもそれをやめることができるのは「悲劇の直前」でしかない。そうした光景が道、路上、つながり、コミュニケーション経路のあらゆる場所に広がっている。

なぜ暴力が繰り返されるのか。それは「心」がないからだ。人間には心は先天的にはない。ひとはなんらかの契機によってその不在に気づき、あらためて後天的に、「心」をかくとくせねばならない。だがたいていの場合「心」よばれる空虚を占めているのは独善であり、自己保身であり、自分さえよければよいという在りようなのだと、きわめてわかりにくいかたちで詩はかたっている。カニエの詩は、と注釈をつけてもいいのかもしれない。

だがこれ以外にはかたりようがないというのっぴきならない切迫感がカニエの詩にはあり、断片的スポラディックな「理解」や「共感」を前提とした二〇一八年のあらゆる一般的表現に異を唱えることが必要、、なのだと、かれが信じていることがうかがえる。

かれの詩になぞらえて、こういいかえることができるだろうか。ひとは、共感をもとめるが、現代において蔓延している断片的な共感の場は、ほんらいわたしたちをつなげてくれる連続的コンティニュアスな理解をむしろ遠ざける、と。だからわたしたちはさみしさをかかえつつ共感を退けねばならず、だれもいない食卓にかえってこなければならない。

そんな偉大で凡庸なるわたしたちのまずしき時代。それはそれでもなおかけがえのないものなのだということを思う。だからわたしたちは、わたしたちのあたらしい食卓へかえろう。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、「剥製」を挙げたい。

眠りから夢、二頭の馬、そのいっしゅんの明滅する空間に映しだされる風景。幽霊はわたしたちのことであり、わたしたちもやがては時代のなかで幽霊となってゆく。そうした世界をみつめる剥製がしずかにそこにある。

重たいまぶたの
壁に配置されている
失われた2頭の馬が、
最も親密な言葉で、
目覚まし時計と睡眠と夢との漂泊する
架空の空間、
次々の克明に
その先端まで反映され
林を流れる
正しさではない
何かが、いわゆる風景の中で
彼らの郷愁を受信したとき、
流れる川のほとりに立って
馬よ、
あなたが地球から初めて訪れたとき、
その由来を、
起源を知っていて、私がいた駅を降りた
その最初の日の
森であること
やがて幽霊のような世界を行く、
心臓に家があり
触れると
復号化する鍵の
一つになることで
薄い音楽が開いて、
私は少し
病院を訪問した
人のやつれた顔の黒い毛が
長い松林に沿って東へ東へと殺到した、
回想で、ずっと前に出た
待っている人はすでに消え、
人の海にもう一度、
予期しない、
何らかの方法で、
覚えている物語の中の
右側にある2つの絵に
海と呼ばれるものが発生した
私はまだ触れていない
優しい、多くの時間
依然として馬として、次に到達する
世界に滞在しない
匂いの近くに浮遊する光
ひときわ明るい、
発祥、まだ沼の領域の
私たちは現実から消え
あなたはこんなにも遅く
未来も過去もなく

「剥製」(P62-P65)冒頭部分

(2018年11月6日)


カニエ・ナハ『用意された食卓』書籍情報
用意された食卓
出版 青土社
発行 2016年
著者 カニエ・ナハ
価格 1600円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

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