書評イレギュラーズ:榎屋克優『ミツコの詩』

――読者? それはなんですか?(ある詩人のつぶやき)

◇ ◇ ◇

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本日は金曜日。今日わたしたちが読む本は、詩集ではなく漫画であり、詩を題材とした『ミツコのうた』。著者・榎屋克優は一九八七年生まれ。作品に『日々ロック』など。現在、『高梨さんはライブに夢中』を、講談社のデジタル漫画配信サービス「Dモーニング」にて連載中。『ミツコの詩』は、『ビッグコミックスペリオール』に連載されたシリーズをまとめたもので、一話から八話を二百十六頁に収める。

詩とことなり、漫画にはストーリーがあり、登場人物がある。版元のサイトの書籍紹介から引用してみよう。

『日々ロック』榎屋克優最新作は詩のバトル
女子高生詩人は今日も「紙以外」の何かに書いている。
校長の車に、トイレの壁に、教室の床に。
元詩人の国語教師は今日も苛立っている。
詩を履き違えた、その女子高生詩人に。
だから二人は詠い続ける。
互いの魂が正しいことを証明するためにーーー!!

ビッグ・コミックス『ミツコの詩』
書籍紹介文

登場人物は主にふたり。「女子高生詩人」と「元詩人の国語教師」——具体的な固有名詞をもつ詩人たちがモデルにいるように感じるが——だ。物語はこのふたりをめぐってすすめられる。わたしがとくにおもしろく読んだのは第一話で、この作品のエッセンスがすべて凝縮されていると感じた(その他には第五話、第六話)。その一話を簡単に紹介してみよう。

◇ ◇ ◇

第一話あらすじ。いくつかの詩集を出版した経験をもつが(おそらく第二詩集まで)いまはすっかり自信をなくし、元詩人と自嘲しつつ鬱屈した毎日を送る国語教師・保は、転校生・光子と出会う。転校生は構内のありとあらゆる場所に落書きとして「詩」を書きなぐるパフォーマンスを繰り返す問題児である。

初登場時の光子は、放課後の教室でひとり、黒板にチョークで詩を落書きしている。そしてそれはどうやら保に読ませるための落書きであることが示唆される。その詩を引用してみよう。

詩人は今日も棺桶の中
言葉の墓場
骨と皮だけになった
詩人が
棺桶の中から
覗いてる
誰か墓参りに来ないかと
息を潜めて
待っている
干からびた夢を
食いながら
言葉の墓場
骨と皮だけになった
詩人が
棺桶の中で泣いている
全部腐って
大地の土
(P8)

注目すべきことは、この詩が、あきらかに保のことを書いていることだ。この前のシーンでは、保は学校の図書室に自著を寄贈し、だれかが読んでくれないか日々待ちわびながら、それがいっさい読まれないことに絶望している様子がえがかれている。光子の詩は、まさにその行為を揶揄している(保のその行為は、作家がインターネット上で日々エゴサーチを繰り返す様子ともかさなる)。

光子はその後も校長の車などに落書きを繰り返し、保はその責任を負わされることになる。ふたりは落書きの掃除を命じられ、その作業中にはじめて会話らしい会話をするのだが、予想通りというか、光子はさらなる挑発を繰りかえす。詩人・保に直接ぶつけられるそれは執拗なものであり、次のようなことばである。

「今さら紙に書いたって誰も読んでくれない」(P15)
「読まれなきゃ詩なんて、ただのゴミ」(P16)
「そんな狭い世界で読まれても意味ない」(P16)

もちろん保は激高し、彼女に反論する。

確かに詩を読む人口はそう多くないが…
雑誌や本になればそれ相応の目を持つ読者の目に止まるし……(P16)
(中略)
詩なんてもう何十年も前から死んでるようなもんだ
その証拠に詩だけで食ってる奴なんて一人もいない
みんな兼業や副業をして精一杯書いているのが現状だ
出版社もほとんど慈善事業で出しているようなもんだし…(P17)
(中略)
詩なんてわかる奴にだけわかればいいんだ!(P19)

すべての詩に携わる人間のこころに響く台詞ではないだろうか?

そのふたりの口論からしばらくして、保の本は図書室から廃棄処分されるものとしてのリサイクル図書に分類される。もちろん、読者がいないからである。

保は絶望し、ゴミ箱に本を投げ捨てる。そこには詩人が詩を書くのをやめるしゅんかんが生々しくえがかれている。それはつまり「こんなものはだれも読まないし、社会に必要とされていない」と本人、、が思ってしまうときだ。詩に限らないが、そうなってしまうともう後戻りはできない。経済的対価が生じない表現においてその価値を知っているのは、どこまでいっても著者たったひとりでしかないからである。

さて、その後どうなったか。次の日、やはりというか、予想通りというか、その時の保の絶望する様子をどこかから見ていたと思われる光子が、校庭に巨大な詩を白線で書いてみせ、ふたたび大騒ぎになる。しかもそれはの詩集からの詩である。

驚いて、なんでこんなことをするんだと問う保に、光子は次のようなことばを投げ付ける。

あなたの詩が大っ嫌い。
特に2冊目の「遠雷」は最低だった。
売れよう、有名になろうっていう下心が滲み出てて…
まだ処女作の方が
素直で純粋で
かわいげがあった
(P30)

ここでわたしたちは、光子は保の詩集を全部読んだ上で、最初から意図的な挑発を繰り返していたことを知るのだった。

◇ ◇ ◇

とある詩人の第一詩集、第二詩集を買って読んだ上で、それを比較し、意見をいってくれるような読者がはたしてどこにいるのか、ということについて考える。あるいは、「大嫌い」といわれるほど読まれる詩人が、本邦にいるだろうか、ということを考える。そう考えたとき、この作品の詩人保は、なんてしあわせ、、、、な、めぐまれた詩人だろうか、という感想をもつ。

保は、じつのところ「紙」(権威)からの評価や承認を欲していたのではない。「紙」を読む読者でもない。かれが欲しかったのはたんに理解者であり、かれはずっと探していた理解者を、すでにこの一話でえている。しかもそのことに(まだ)気がついていない。光子のような理解者との出会いは一種の奇跡であって、人生においてめったに起きることがないものだといえる。

もちろん、作家の仕事は、理解者がいるかいないかに関わらず行われるものである。そういう意味では、この作品の保は詩人というよりは、詩人になりたがっているアマチュアのようにみえる。理解者は自分を鼓舞してくれる存在だが、「読者」はそうではない。読者は無関心であり、読者は冷淡であり、読者は作家のことなんてちっとも考えてはくれない。そしてそれはあたりまえなことであり、そうした無限に無関心な他者にみずからが信じる作品をそれでもなお開いていくことが作家の仕事なのだ。

第二話以降、理解者をえた保は、作家としてはじめて無関心な読者たちと向き合ってゆくことになる。だがその顛末については、本書評では取り上げることはしないでおこうと思う。前を向いた書き手の困難は、それがいかに苦しかろうとかれにだけ与えられた恩寵であり、それを他者が外からどうこういうことはできない。

◇ ◇ ◇

『ミツコの詩』には、「読者の不在、、、、、」こそが詩のかかえる問題である、という示唆があった。
この作品の主人公は後向きだが、現実に目をやってみれば、本邦には優れた詩の書き手が二〇一八年にもたくさんいる(それは《千日詩路》の読者であれば同意してくれるだろう、とわたしは信じる)。一方、読者は数字上もほとんど存在しなくなった。詩をめぐる世の中の雰囲気としても、その市場の縮小にはつよい実感を伴う。

なぜ、どのようにして、いかなる過去の挑戦とその敗北の結果の現在に、読者はいなくなったのか。そういうことについて詩は考えなければならないだろう。それは外にいる漫画家の仕事ではなく、特定の出版社の仕事でもなく、実際に詩を書く当事者である詩人の仕事だ。

詩と書評のサイト《千日詩路》はこれからも、一般読者――詩集や詩の雑誌を買ったりしないひとびと――にむけて、詩を紹介してゆきたい。そうした運営方針をこの漫画になぞらえていえば、いまそこにいる不可能な読者に気づかねばならない。だがそれはそんなにむずかしいことではないのではないか、ともわたしは思っている。

(2018年11月2日)

榎屋克優『ミツコの詩』書籍情報
ミツコの詩
出版 小学館
発行 2017年
著者 榎屋克優(えのきや かつまさ)
税込価格 586円
新刊 honto / 古本 Amazon

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