『水天のうつろい』アイキャッチ

岡田ユアン『水天のうつろい』

——生きている、そのなかに《あのひと》をみる。

◇ ◇ ◇

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本日は木曜日。今日わたしたちが読む詩集は岡田ユアンの『水天のうつろい』。著者は一九七六年横浜市生まれ。詩集に二〇〇八年『善良な沈殿物』、二〇一二年『トットリッチ』。二〇一〇年には「明朝体」にて第十九回詩と思想新人賞受賞。本詩集にて第二十八回日本詩人クラブ新人賞を受賞。詩二十三編を九十六頁に収める。

さて、それでは読みはじめてみよう。「罌粟の実の笑い」から。

闇にまみれて集ってきたのは、文字たちだった。紙を擦るような音を走らせてやってくる。文字はわかっているのだ。私がその気配に気付くせつな胎芽から胎児へ呼び名が変わる時のような安堵感が胸の中をまわったことを。いくら真昼の空に星を探して見知ったようなそぶりをしても、どこかでかならず見透かしている。しかし文字は私を笑ったりはしない。だからよけいに困惑する。私は押さえつけていた文字をこぼしてしまう。白い長方形の中へ。笑顔で話す友人の頭部に紫紺の蛇がからみついていたこと。

蛇もこころなしか笑っているように見えて、舌先を出しながら次第に友人の胸元へ移動してゆく。螺旋階段を下りてくるようになめらかな動きはとても優雅だ。友人は気にもとめず話を続ける。そのうちテーブルの下に隠れて見えなくなってしまった。するとどこからか罌粟の実がいっせいに笑ったような音が聞こえた。思わず顔を歪ませると、友人は「やっぱり、そうでしょう」と言って笑いながら話を続けた。徐々に大きくなって悲鳴に似た震えを放っている。ふと目を落とすと紫紺の蛇は私の胴回りを螺旋階段を上るように這い上がってきている。とても優雅とは言えない。湿度を含んだ冷たさが首筋を通り、視界を遮り頭頂へすすむ。私は動けずに座っていた。

「罌粟の実の笑い」第一、二連

第一連。紫紺、は、濃い紫色。紫紺の蛇からは、加齢によって膨らんだ静脈瘤の色や、より生気を失った肉の色、不健康な爪先などを連想する。罌粟、は、消し、または化・死だろうか。体内に命を育む/もうとする書き手の周辺に、死のイマージュが凝集する様子がかたられる。

「紙を擦るような音」は、S音、歯擦音と思うが、蛇の声にも違いない。また「白い長方形」は、原稿用紙、または空白の入力フォーム(ブログ、テキストエディタ、Word……)に向かうだれかの姿を想像させる。

第二連。加齢、死へのひそかな歩みが蛇になぞらえられている。蛇の笑い声は、S音であり、歯擦音であり、細かくくだかれた骨の破片のような「罌粟の実がいっせいに笑」った声がかたられる。蛇にからみつかれる友人は自分の似姿だろうから、蛇が自分に移動するのは自然なことだ。

書く、思いだす、書く、考える……というゆがんだ円環的営為が詩によってかたられる。それがゆがんでいるのは「こころなしか笑っている」蛇に対するおびえがあるからであり、そのおびえからわたしたちはほんとうに自由になることはできないからだ。そうした姿を正直にかたろうとするとき、そこに文字たちが「闇にまみれて」集まってくる様子は不気味で、どこか、見覚えがある光景でもある。好きな詩だ。

罌粟の実は食用物だが、もちろん阿片の原材料でもある。日本では食用の罌粟は合法だが、違法の国もある。たとえばシンガポールの国立麻薬国立取締局のウェブサイトをみると、罌粟の実は加熱して発芽不可であるか否かを問わず、所持しているだけで違法だ。危険な物質(モルヒネ)が含まれるからだ。

すると題名からは、加齢、死へのおびえを緩和しようとするモルヒネ(詩)が笑われている、とも読める。わたしたちの有り様、見透かされていることそのものがかたられているのだ。

個人的な話をちょっとすると、わたしの娘は一歳半になった。ひとは老いる。子供を産めばその老いは加速する。それは男親であってもそうであって、老いとは、自分が主体であった人生が別の目的によって乗っ取られ、いつのまにか脇役になっていることに気付くしゅんかんのことなのだ、ということを思う。だが、そんな老化へのおそれはたいていの場合忘れられる。それはふつう、育児(とそれにまつわる作業)がひとからありとあらゆる時間を奪うからだ。

胎児、子供、育児のモチーフは他の詩でも繰り返される。別の詩も読んでみよう。

いましがた
生まれた文字が
寝息をたてている

無数の意味が
選ばれることを心待ちにしながら
とり巻いていることも知らず

しのび寄るけはいをふりはらっても
きっと

わたしの手をすりぬけ
重なりあい
名づけられることをゆめみる

名づけられれば
その響きに似たかおになり
おうとつを得てゆく

ふりはらうことで
またひとつの
意味を生むことと知り
だまって みまもる

「ねむりのとなりで」第一〜六連

ふたたび子を成すことが書くこととかさねられる。いましがた生まれた文字、は、あたらしくつくられた詩のようにも、眠っている新生児のようにも、あるいはいまだ意味を伝達することができない、でたらめな文字列のようにも読める。

世界のあらゆる事象にはそれぞれ名前があり、それら個別の事象は名前(意味)があたえられることによって、その他より区別され、認知可能なものとなる。一方、そうした名づけという行為は、無限にひらかれていたその事象の可能性をひとつの意味によって刈り込み、狭めることでもあるだろう。だから「名づけられれば/その響きに似たかおになり/おうとつを得てゆく」といえる。意味を否定することは「またひとつの/意味を生む」。だから名づけは必須である。

一方、個人的な話をすれば、わたしは子供のころ外国で過ごしたので、ある事象について、母国語(日本語)でも英語(外国語)にもそれに呼応する単語が意識のなかに存在していないという状態、つまり世界を認識するすべが奪われている生活に、非常にくるしめられた経験があるが、その時のことを思いだす。ひとからことばを奪えば、ひとは死ぬということを文字通り実感したときだった。すでにある意味を学ぶことがなければ、それらに新しく自ら意味をつけたしてゆくことはそもそもできないのだ。

そうしたわたしたちの有り様がかたられる題名「ねむりのとなりで」は、「意味のとなりで」だろうか。わたしたちはふだんはあまり意識することはないが、意味のとなりで眠っているのだ。眠るこどもにとって、やがて自らの世界に自ら名前をつけてゆく、つけたしてゆく行為は、かれだけのものであり、それがしあわせなものであってほしいと親は思うだろう。もちろん、子供は、意味がそうであるように、親の持ち物ではない。だから「だまって みまもる」ほかない。

この詩も含め、本詩集の主なテーマは、書くことについての詩であり、育児についての詩であるとも思うが、それらを区別せずに同じ場所にかさねてゆく膂力と技巧、その戦略を愉しく読んだ。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、「再会」を。
くりかえされる喪失のなかで、わたしたちはなにとふたたびめぐりあうことができるのか。わたしたちは、生きている、そのなかに、かけがえのない死者をみるのだ。

エジプトの壁画にある神官のような横顔で
子は ラーラーと泣いた

朝の気配などまだどこにもない空間
それどころか
瑠璃色の宇宙を閉じ込めたうような一室で
見知らぬ海のさざ波を生むように
張りつめ ふるえる声
祈りのようでもあり
哀しみのようでもある響きに
まだ 母になりきれない女は
うろたえ 畏まる

女の様子を感じとったのか
いっとき泣き止んだ子が瞼をあけ
はじめて女を見る

瞳には 生まれたばかりの
双子の惑星が浮かんでいた
それは 現時にいたるまでのはるかな物語を
せつなに読み解いたような光を放ち
懐かしさに満ちていた

手にあまる 小さな火色の命に恐れをなし
女も 子をまねて
ラーラーと泣いた

「再会」全文

(2018年11月1日)


岡田ユアン『水天のうつろい』書籍情報
水天のうつろい(すいてんのうつろい)
出版 らんか社
発行 2017年
著者 岡田ユアン
価格 2800円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

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