『詩の礫 起承転転』アイキャッチ

和合亮一『詩の礫 起承転転』

——矩形のこころに雨がふる。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は火曜日。今日わたしたちが読む詩集は和合亮一の『詩の礫 起承転転』。和合は一九六八年福島市生まれ。一九九九年、第一詩集『After』にて第四回中原中也賞受賞。二〇〇五年、第四詩集『地球頭脳詩篇』にて晩翠賞受賞。そして《千日詩路》の読者には説明不要かもしれないが、本邦のインターネット上でもっとも読まれている詩人のひとりだ。そのきっかけは二〇一一年、東日本大震災直後に大反響を呼んだツイッター上の一連の書き込み(ツイート)と、その後それをまとめた『詩の礫』にあるといってよいだろう。

本書は、その『詩の礫』の続編にあたり、東日本大震災から一年が経過した後のツイッターの投稿をまとめたものだ。より具体的には、二〇一二年から二〇一三年にかけて投稿されたツイートが時系列にほぼそのまま並べられ、そこにホームページから詩編が九篇、書き下ろし詩編が二つが追加され、これらを三百頁に収める。

さて、それでは読み始めてみよう。
引用ツイートにはすべてタイムスタンプ(年月日と投稿時間)が付くが、割愛した。

命 言葉 心 ふるさと 今日という日 一つしかない かけがえがない 命 町 空 心 風 この福島は 一つしかない 踏みしめる 一歩とは いつも たった 一つしかない だからいつも かけがえがない 命も 愛も 真実も 悲しみも

一人のあなたも 一人のわたしも いつも たった 一つしかない だからいつも かけがえがない

あなたはふるさとを 幼い子供のように 抱き締めたことがありますか

あなたはふるさとの名を 親友のように 肩を叩いて呼んだことがありますか

あなたはふるさとを 母親のように ただ 想ったことがありますか

あなたはふるさとに 手紙を書いて 親しい返事をもらったことがありますか

あなたは 福島を あきらめてはいない なぜなら 福島は あなたを あきらめてはいない

福島は あなたを あきらめてはいない なぜなら あなたは 福島を あきらめてはいない

なぜなら あなたも 私も 福島も たった 一つだからだ

あなたも 私も ふるさとも たった 一つだ

(P17-P18)
2012年3月のツイート

一読し、様々な思いや感情がわたしの胸に去来する。

ツイートは、こころとの距離が近い。ツイートの圧倒的な感情喚起力、それがツイッターというソーシャルメディアをここまで広めた理由だということを思う(ついでにいうと、それはわたしがツイッターが苦手な理由)。

こうして時系列に並べられたツイートは、小さな携帯端末の矩形のディスプレイで見るのと、紙に印刷されたものを読むのとではかなり印象が違うが、ほぼ同じような効果があると思える。

ツイートは剝き出しのテキストのいわば裸体であり、こころとの距離を縮める。こういってよければ、いわゆる詩、、、、、よりもずっと近い。そしてそのことを和合ほど理解している詩人は本邦にはいないのではないか、という印象をもつ。

和合はツイートで「かけがえがない」ものについてかたる。命、言葉、心、ふるさと。だがそのどれもがじつは置換可能なものであることをわたしたちは知っている。それがひとつしかないというのは端的にいって嘘であり、そしてそれが嘘であることが、ありとあらゆる場において、くりかえしかたられている。

「ふるさとを 幼い子供のように 抱き締め」ることはだれにもできない(できないからこそふるさとは永遠なのだ)。「一人のあなたも 一人のわたしも」かけがえがないものでもない。むしろツイッターという場においては、無限に増殖する《わたしたち》がそこに想像されることが、こころとの距離の近さ、あるいは自分のことが書かれているような錯覚、、をもたらしていることを想起しよう。そこにいるのは、日本語を解する幾億のわたしであり、幾億のあなたである。つまりここでかたられているのは不可能なこと、不能性そのものであると読める。

その生々しい感覚は、震災において無力だったわたしたちの姿とかさなる。いやおうなしに思いだされる記憶もある。たとえば個人的に思いだされるものとは、冷却ができなくなった原子炉建屋の上空から「水をかける」自衛隊ヘリコプターの姿と、それを文字通り泣きそうな声で報道するアナウンサー、そしてその喜劇的な光景を、テレビのモニターで見ている自分の横顔である。

「あなたは 福島を あきらめてはいない」をそのまま読むことができるか。あるいは、「福島は あなたを あきらめてはいない」をそのまま読むことができるか。そういう問いを、詩はなげかける。別のことばでいえば、希望がかたられるとき、じつはかたられているのは別のものではないのか。それはたとえば絶望を前にしたわたしたちのみえない横顔についてかたっているのではないのか。そういうことを考える。

こうしたことと関連しているかもしれないが、和合は、自身のツイートで、批評家にツイートとその作品を批判されたことについてかたっている。その部分を引用してみる。

「被災者という「無垢」を見据えて悲歌供給していれば、詩人はどんな詩を書いても許される。称賛されることはあっても、非難されることは決してない。書く行為としてこれほど安全な場所もめずらしい」現代詩手帖6月号…20年も先輩として見あげてきた批評家の言葉。詩の批評家よ、その永遠なる不在。

「震災を前にして詩人はイノチガケで書く必要もなく、事実だれひとりイノチガケで書いている詩人はいない。イノチガケが凝縮したような震災のなかで、イノチガケとは最も縁遠い場所に詩人がいる。そのコントラストが悲しいくらい滑稽である。」と書く批評家の滑稽さよ。

「おそらく言葉は無力ではない。詩人が無力なのである。」と書く批評家の無力さよ。俺は悲しい。決めつけたまま、自己満足して、遠のいていくだけの、あんたらのやり口が。まあ、良い。

私は書く。反論を、山のように書く。だが、おおかたは個人的な感情の刃でしかないような気がしているから(実際はみんなそうだ)、これまでは書かなかった。だが、果てはなくともきっちり決着はつける。虚妄の批評家どもめ。

「不明男性、遺体で発見=一時帰宅の浪江町、自殺か」/ポルトガルという異国に暮らすあんたの机上に、この男性の悔しさが載っているか。日本に来い、すぐに来い。俺は待ってる。

みんな嘘っぱちだ。本当のことなんて一つもありゃしねえ。詩を駄目にしたのは一体、誰だ。詩人と詩の批評家が、みんな駄目にしちまってんじゃあねえのかよ。

(P66-P67)
2012年5月のツイート

《千日詩路》は、読者と一緒に詩を読むというコンセプトで運営されるサイトであり、作品を批判したり、悪いところを発見してゆくことが目的ではない(その逆だ)。が、わたしとしては和合が紹介している批評家の発言にその後のツイートできちんと反論していないことがとても気になったし、本書の一読者としては失望した。

というのも、「安全な場所」の定義について、あるいは「イノチガケ」なる態度について、そのようなものがほんとうは、、、、、どこにあるのかについて、文字通りいくらでも反論できたはずだからだ。だが反論といえるものは「みんな嘘っぱちだ」というものだったので、読後感としては不満が残る。そんなことは当たり前ではないか。

一方、少し穿った見方をすると、こうした一連の応対はまさにツイート上の演出であり、インターネットの読者が好む「対岸の火事」でもあることをわたしたちはすでに知っている。感情の操作マニピュレーション、それも自ら進んで操作されることを望むこころの動き。そうした読者の欲望に忠実にこたえるために、ツイートは怒りを、かなしみを、くるしみを、直裁的に表現せねばならない。

それはあきらかに技巧なのだが、いわゆる詩の技巧ではなく、そもそも要請されている語彙と文体もまったく異なる。そういう差異だけを見て、(ページビューに換算することが難しいほど影響力の小さな)詩の世界の内部から、第一線で影響力を確保している(おそらく一日あたり数万単位のページビューの)書き手に文句が飛ばされてくる様子をちょっとだけほほ笑ましく思わないこともない。

ペットボトル、フタを取る、ラベルをはがす。ペットボトル、またフタを取る、またラベルをはがす。またペットボトル、フタを取る、ラベルをはがす、震えがくる、震える、また震えている。またペットボトル、またフタを取る、ラベルをはがす。ペットボトル、潰す、潰す、潰す。潰される、潰される。

ペットボトルに水が残っている、捨てる、恐ろしい。またペットボトル、また捨てる、また恐ろしい。だから捨てる。またペットボトル、また水、また恐ろしい。また捨てる。水。捨てる、捨てる。またペットボトル、また水、恐ろしい、また捨てる。またペットボトル、また水、恐ろしい、捨てる、流れる。

汚染土、表土を削る、石をはがす。また汚染土、また表土を削る、落ち葉をはがす。汚染土、また削る、また剝がす。震えが来る、震える、また震えている。また土、また削る、またはがす。はがす、はがされる、はがす。またはがす、またはがされる。はがれないもの。はがさないもの。はがしてしまうもの。

(P216-P217)
2013年1月のツイート

とても好きな詩連。同じことをくりかえすこと。気付き。震える。それは書くということの驚きに呼応していると読める。マスプロダクションされる消耗品としてのツイートを書く、アップロードして大量に流通させる。ことばから意味がはがれる。意味がないものから意味がはがれる。震える。気付きに震える。だからペットボトルを潰さねばならない。

だが潰しても潰してもそこには不定形の水が残される。それは書き手にとっておそろしいものだ。だから何度も捨てる。意味が戻ってくる。なんども意味(読解)が戻ってくる。幾億の読者の解釈が波となって押し寄せてくる。それを否定する。捨てる。意味などないとうそぶく。捨てる。ツイートする。読まれる。だが誰も読んでいない。

書くことが除染になぞらえられる。けずる。推敲する。ことばがよごれる。ツイートでよごれる。書くことでよごれる。消費されてよごれる。たくさん読まれてよごれる。いわゆる詩の言語からはずれてよごれる。よごれたほうが読まれてしまう。はがさねばならない。けずらねばならない。何度もはがさねばならない。書いては消してしまう、消しては書いてしまう。何度もくりかえしてしまう……と、書くことについての詩連と読める。

詩はじつのところ、嘘を書くのには向いていない、ということを思う。というよりもありとあらゆるシリアスな表現は、結局、どんなに努力しても、ひとつも嘘を書けないのだ。和合のツイートはそんなことをあらためてわたしに教えてくれる。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、といってもほぼすべてツイートなので部分となるが、二〇一三年二月十六日より始まる部分。

「どうた どうた どどどうた どうた どうた どどどうた 鬼が来る」の繰り返し部分、問うた、問うた、問問問うた、問うた、問うた、問問問うた、鬼が来る、だろうか。呪文のように無意味に問うこと、意味が剥奪された現実において無意味に問うことが鬼を呼び寄せる。わたしたちもまたこのことばをつぶやき、このグロテスクな二〇一八年の現実にたちむかってゆかなければならないのではないか、ということを思う。

どうだ、どうだ、どうなのだ——問う、詩を書く、答なく、ふたたび鬼は問う。

僕の中には 鬼がいる 気の弱い 泣いてばかりの情けない鬼だ

僕の中には 鬼がいる 豆や石をぶつけられて ほうぼう逃げまわってきた 鬼だ

僕の中には 鬼がいる 足も 手も 太もも 脇腹も 傷だらけだ 泣く 泣け 泣いている

家に戻ってきて 泣き出す 僕だ 鬼だ

僕は 僕の 心の 鬼の手を 出来るだけ 優しく 握りたい 髪をなでたいと思う だけど 鬼は やはり 鬼だ 手をのばすと こちらが 傷つく 一緒に 泣く

どうた どうた どどどうた どうた どうた どどどうた 鬼が来る

優しくしたいのに 優しく出来ない 傷つくから 傷つけられてしまうから 優しくしたいのに 優しくできない 傷つけるから 傷つけられてしまうから 鬼に 鬼が 僕が 僕に どうしようもない 火がつくぐらいに 泣く

俺の中には 鬼がいる 荒くれの 激怒しているばかりの 鬼だ

置いていかれた 犬が とぼとぼと国道6号線を歩いていた 取材に出かけた知人が それを発見したが 犬は とても警戒しながら 近づいてきたそうだ 人間に対して 今までに無い 新しい感情を持っているに違いない と鬼は私に言った

(P233-P235)
2013年2月のツイート

(2018年10月30日)


和合亮一『詩の礫 起承転転』書籍情報
詩の礫 起承転転
出版 徳間書店
発行 2013年
著者 和合亮一(わごう りょういち)
価格 1400円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

 

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