岩崎航『点滴ポール 生き抜くという旗印』

——ゆっくり書く、そうすることにしている。

◇ ◇ ◇

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本日は月曜日。今日わたしたちが読む詩集は岩崎航の『点滴ポール 生き抜くという旗印』。著者は一九七六年仙台市生まれ。三歳で進行性の筋ジストロフィーを発症。生活のすべてに介助を必要とするなかで詩作を行う。本作は二〇〇六年に出版された私家版『五行歌集 青の航』に基づき、それ以降の詩も収録しあらためて刊行されたもの。事実上の第一詩集と読める。五行歌、自由詩を含み合計二百十六編、そこにエッセイを追加し、百八十四頁に収める。

ほとんどの詩は、五行歌の様式にて書かれ、一頁あたり上と下にそれぞれ五行一連ずつ配置され、合計十行の詩がひとまとまりとなってひとつの作品を構成している。また、それぞれの詩はすべて題名がないためページ数を明記する。

さて、それでは読み始めてみよう。
表題ともなった「点滴ポール」の含まれた詩から。

点滴ポールに
経管食
生き抜くと
いう
旗印

自分の骨身に
活を
入れるための
呼吸器を
つける

(P60)

経管食とは、著者の自注によれば「口から食事がとれない人、または充分にとれない人が、胃や腸に通した管から直接栄養を入れる」食事を指す。

わたしたち読者は、ふつう自分の人生と無関係な第三者の物語を関心を持って読むことはできない。関心を持つことができるのは、そうした第三者の物語が、自分の人生と関係があるかのように思えるとき、そうした関係性の契機が書き手によって創出されているときである。そのとき、個人の小さな物語は書き手のプライベートな所有物であることをやめ、無限の読者のための世界に開かれた作品へと変化をとげる。

この詩では、ふつう「スタンド」と呼ばれるものが「ポール」と読みかえられている。スタンドは文字通り自立するものであり、そうでなければ点滴などの袋をぶら下げて患者のそばに置いておくことはできない。ポールは違う。ポールは棒であり、それをだれか、、、が握りしめ、立たしめなければならない。

それがポールと呼ばれているのは、旗をかかげねばならないからでもある。スタンドは旗をかかげることにふさわしくない。それは力強い手によって握りしめられ、空に向かってのびる棒にひるがえる徴でなければならない。そのときはじめて旗は旗としての機能を果たし、ひとを鼓舞するものになりうる。

だが、経管食を取る身体ではポールを握ることはできないこともまた詩のうちに同時に示唆されている。そうした不能性はわたしたちにとってもさまざまな場面で経験があるどうにもならぬ現実を指ししめすが、この詩がわたしたちのこころを打つのは、そうした現実を後天的に読み替えることによって、それを超克しようとする意志があることを感じるからである。それを岩崎は「詩」と呼んでいる。

二連では、人間の機能を拡張するものとしての呼吸器がかたられており、前半と合わせると、旗は、ひとの生きのびる意志、大きくいえば石と鉄と炎で大地を切りひらいてきた変化の申し子たる人類を象徴するもののようにも読める。

失禁したあとの
言葉無き優しさ
屈辱と
申し訳なさとを
そっと包む

胃薬にもなり
安定剤にもなる
この薬
どちらの作用を
本命とする

(P24)

後半。薬は特定の作用をもたらすものとしてつくられており、ほんらいはひとつの効果しかもたらさないものだろう。だがここでは薬は読み解かれるものとして置かれている。ふたたびわたしたちは現実にあらたな意味をつけくわえるまたは読み替える戦略に立ち会っているということができるだろうか。薬がつくられた時点の意図ではなく、薬が消費される時点でその意図を後天的に読み替えること。

そこまで読んで前半に戻ると、「包む」とあり、これが薬に対応していることに気付く。「優しさ」と「屈辱」と「申し訳なさ」が飲み込まれ、薬となっている。そうした感情を飲み下すことが、胃薬にもなれば安定剤にもなりうる、と読める。さまざまな区別することのできない感情が渦をまきながら消化される、だがその効果は自分で決めるしかない。

前半と後半をそれぞれ独立した詩連として読むか、完全にひと繋がりの詩として読むか。詩集全体を通じて、わたしは著者がそれを意図的に明示していないように感じられた。それは読者にむかって、多義性をそのまま提示しているようにみえる。どちらの作用を本命とするかは、読者に委ねられているともいえる。

ある日、目のまえが
ぐるぐる回ってしまったときには
まず、おとなしく目をつむる
ゆっくり 動く
そうすることにしている

(P155)

速度について。動作の遅さについて書かれているが、書くことについての遅さにみえる——ゆっくり 書く そうすることにしている。

本詩集のどの詩もそれぞれ字数は少ないが密度が濃い印象がある。長い詩の場合、どこか一部分を削ると、場合によってはそれがあきらかに見えてしまうことがある。岩崎の詩の場合、そうした削られた部分はほとんどみえない。ゆっくり動く(書く)こと、それは目をつむることであり、喪失を自らの意志でふたたび自分のものとすることによってえられる文体なのだろうという印象を持つ。書くことについての詩。

管をつけてまで
寝たきりになってまで

そこまでして生きていても
しかたがないだろ?

という貧しい発想を押しつけるのは
やめてくれないか

管をつけると
寝たきりになると

生きているのがすまないような
世の中こそが

重い病に罹っている

「貧しい発想」全文

なにもかもを可視化したインターネットの進歩より、ほんらい表に出るべきではなかった「貧しい発想」がありとあらゆるところに露出するようになって二十数年が過ぎた。だがそれは文字情報テキストとして可視化される前から世の中にあったものであり、いまもあるものであり、これからもあるものである。そのなかで異なったまま生きるということ、外れた存在として生きることは、かたちのない世間や空気にあらがうことでもあり、多様性を認められない貧しさ……ひとの弱さ、、、にあらがうことでもある。

ひとにとって、違うということはくるしいことであり、異なっているということはさみしいことであり、分かり合えないということはかなしいことである。そうしたものを受け入れられない弱さが画一的な社会をうむ。そうした弱さがかたちをかえて暴力となり、寝たきりの患者に「生きているのがすまない」と思うよう強要する。あるいはそうした弱さが「生産性がない」とマイノリティの攻撃をはじめる。だから岩崎の詩は、「ひとの弱さこそが重い病である」とかたっているのだ。

それではわたしたちはどうしたらよいのか。そんな質問に詩は答をあたえない。

だが、答がある問いもある。それは「わたし」はどうしたらよいのか。という問いであり、その岩崎の答がこの詩集なのだと読んだ。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、次に挙げるもの。
祈りとは、「本当に/そう思わなければ」だめだという。だがそんなことが可能だろうか。そんなことがわたしたちにほんとうにできるだろうか。

祈ることはますます困難になり、わたしたちの手は、よごれたまま燃えている。

本当に
そう思わなければ
祈りでは
なく
呟きなんだ

確かにその形は
違う、けれども
気づいた
いつの間にか
届いた 祈り

(P56)

(2018年10月29日)


岩崎航『点滴ポール 生き抜くという旗印』書籍情報
点滴ポール 生き抜くという旗印
出版 ナナロク社
発行 2013年
著者 岩崎航(いわさき わたる)
価格 1400円+税
新刊 honto / 古本 Amazon

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