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大崎清夏『新しい住みか』

——あたらしいことばを、愛していて、同時に、憎んでいる。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は十月最後の金曜日。今日わたしたちが読む詩集は、以前(#0038)取り上げた大崎清夏の『新しい住みか』。中原中也賞を受賞した第二詩集から四年ぶりの単著詩集となり、二十編を九十八頁に収める。

それでは読みはじめてみよう。「テロリストたち」から。

静かな部屋です
扉がなくて、窓があります
みんなそこから入ってきます
みんなそこから出ていきます
大きな窓です
静かな窓です
向こうはいちめん、草の海です
夜になると
眠れないふたりが忍びこみます
湿った手を窓のさんに掛けて
(ふたりは、はだかんぼです)
(侵入者は、歓迎です)
(所有者は、お断り)
アダムやイブではありません
あまりお風呂に入らないふたりは
すこし脂っぽいにおいがします
お金がないのかもしれません
でも部屋は構いません
(侵入者は、清潔です)
(はだかんぼですからね)
部屋にも何もないので安心です
入ってきた窓から向こうを見れば
きっときれいな昂奮をするでしょう

部屋からはよく見えます
遠くに、住むことのなかった街
夜空に、ひどく混雑する星々
ふたりのかなしい狼のぐるぐるまなこ
いちめんの草の海

部屋は憧れているのでした
はだかんぼのふたりにです
どこかを出ていくことにです
部屋は感じていました
(壁が三方、これは多すぎます)
(窓が一つ、これは少なすぎます)
護られすぎているのでした
(まったく釘もすこし刺さりすぎているのです)

あの汗臭い、はだかんぼのふたりは
あんなにやすやすと出ていきます
ひとあしに窓のさんを跨いで
あんなに簡単に風に身を投げて

「テロリストたち」第一、二、三、四連

静かな部屋が語り手となるとき、そこにかくされているのは「わたし」や「わたしたち」か。そんな静かな部屋にいるわたし(たち)がテロリストたちを羨望のまなざしでみている。そのまなざしは「窓」を経由されて外へ投じられる。ここでテロリストたちと呼ばれているもの、それは窓から進入し、そしてやすやすと外へ出てゆく。わたし(たち)はそれを見ていることしかできない。

詩によってなにがかたられているのか? 作品の「深さ」なる虚構を信じることができないわたしたちは「深」読みをすることなく、そこにかさねられている二〇一八年のさまざまな現実について考えてみることがゆるされるだろう。

テロリストTerrorist」を英英辞典で引けばその定義は、暴力とくに殺傷行為や爆弾を用いて政治的目的を達成すること、とある。ひろくいえばわたしたちの現代社会はさまざまなテロリストたちであふれ、そうしたテロリストたちが政治的目的の達成のために毎日、毎時間、毎秒拡散しつづけることばの暴力がソーシャルメディアを満たしていることをわたしたちはよく知っている。大崎の詩のテロリストがどうしても現代社会のそれとかさなって見えるのは、四角で区切られた部屋と窓というイメージが、液晶ディスプレイ(または小さな携帯端末)がぽつんと置かれた生活者のワンルームを想起させるせいかもしれない。そこでは「窓」はいつわりの外への出口であり、電磁的ネットワークのインターフェイスであり、夢がうつしだされる万華鏡である。

部屋のわたしは取り残される。そしてテロリストたちであるはだかのふたりはやすやすと外へと消えてゆく。その閉じられた空間から外へと出られないことが、未来のテロリストたちを育む。ばらばらにされていること、隔絶されていること、断絶がそこに横たわることが、テロリストを産む。部屋から外にわたしが出られるとき、それは自らが圧倒的多数のテロリストたちと同化するときにほかならない。

だが、詩はその最終連において、わずかに踏みとどまっている。「部屋はまだ絶望していません」とかたりながら。いつでも外に出られるから、といいながら。

テロリストにならずに、部屋を出ることはできるのか? そのためには、部屋を部屋たらしめている構造を見なければならない。そういうことを考えさせられる。

部屋(わたし)はテロリストになってはいない。少なくとも、この詩ではまだ。

地球がもうこんなに貧しくなって
画面に映るのは青ざめた道ばかりで
街角にも火花すら散らないというので
みな、次の星へ行くと言っています
なつかしい埃や煙や泥の匂い
幸運に恵まれれば樹液の匂いも
嗅ぐことができるかもしれないと
そんなふうに荷物をまとめる気持ちを
昔の人は希望と呼んだそうです
いのちがけの希望ばかりが増えて
希望がインフレを起こしてからは
私たちはもうあまりその言葉を使いません
みな、次の星の話をしています

みな、次の星の話をしてはいますが
それが同じひとつの星の話なのか
離ればなれの別の星の話なのか
私たちの誰も確信が持てずにいます
正直その話は誰の口から聞いても
希望ということばと同じ程度に
ふわっと嘘の匂いがします
昔はここも大都市だったのかもしれません
瓦礫は風でぜんぶ崩れて砂塵になりました
いまは薄明るい野原です
他愛のない草が生えて
この場所はこんなに心配いらないのに
まだ誰の目にも見えていないみたいです
私はここに家を建てるつもりです

きっとすぐ彼らにも見えるようになるでしょう
そうしたらみな、次の星の話なんてやめるでしょう
そしてみな、ここに家を建てようとするでしょう
土地がだんだん混雑してくるでしょう
信号機と街灯がたくさん立って
交差点の名前が地図に刻まれ
法律が採択されるでしょう

「次の星」第一、二、三連

次の星……ふたたびさまざまな解釈がもとめられている。「日本はもうこんなに貧しくなって/みな次の国へ行くと言っています」とつい読みたくなる誘惑にかられる。詩は衰退しつつある時代の空気をあらわしているように読めるし、「うつくしい国」などというキャンペーンが堂々と用いられてしまう本邦の閉塞した経済的・社会的状勢のことを想起させもするが、そうした読みを脇においても、「次の星」という夢を必要としてしまうわたしたちの姿には生々しいリアリティがある。

詩はそれが「ふわっと嘘の匂い」のするものであるとかたっている。夢は嘘にすぎず、なつかしいものは取り戻せず、あるのは砂礫が広がる野原のみだ。詩はそこに「家を建てるつもり」だとかたってみせる。だからわたしたちは、「次の星の話」をやめねばならない。やめねばならないが……。

おそらくわたしたちはやめられない。詩はそれを知っている。「次の星の話なんてやめるでしょう」とくりかえされるあとに、みえない複数の(だがしかし不可能です)の復唱が読めるように思う。そうした詩連はどこか、さまざまな瓦礫がうちすてられた冷たい荒野に吹くやわらかい風を思わせる。それは希望とはいえないが、ひとを傷つけることを選ばなかった諦念を帯びて、どこか心地よい。

彼女が川になったことは
しばらく経ってから聞いた
教えてくれたのは新聞記者だった
よく知っている川だった
そうか、彼女が、と思った
最近その川で水を汲んでいた私は
なぜ水道が止まったのかやっと理解した

いつものように2リットルのペットボトルをもって川へ行った
川だとばかり思っていたがよく見ると彼女だった
彼女は運動家だったのだから
考えてみれば自然ななりゆきだった
やっとわかったの、と川が笑った
私も川になりたくなった
まだ何も言いださないうちに
なれるなれる、と川が流れた

はじめに深く息を吸った
裸足の裏でせせらぎを整え
それから徐々に川になった
緑の苔がすこしずつ爪を覆い
岩石のまるみが背骨を運んだ

舞うというよりは確かめるような仕草で
彼女のからだは急流を造形していった
その水しぶきを浴びるためには
一筋しかない道を通って

言葉は彼女の岸辺で動かなかった
ときどき彼女は言葉をじっと見た
できるだけ左や右に偏らないように
からだの軸を意識しながら

「水場」全文

ここでかたられている運動家はソーシャルメディアを活用する社会活動家と読める。その川はタイムラインと呼ばれる、何千万人もの意識の流れストリームがあつまる電磁的な情報の流路なのだろう……と思いながら、一連の最後の二行でわからなくなり、一度立ち止まる。

少し考えたが、「川で水を汲んでいた私」が、なぜ川で水を汲むようになったか、は、水道が止まったからだ、ということに思いいたった。つまり、最初は「私」は家で水道で水を汲んでいて、水道が止まり、川で水を汲むようになり、そして彼女が川になったことを聞いた、という読みでよいのだろう。

川が集合的無意識のようなテキストの尽きぬ流れだとすれと、かつて「私」が自分の水道を持っていたということは示唆的にみえる。それは詩や文芸が読まれなくなり必要とされなくなった二〇一八年の現実を示唆しているともみえ、またインターネットの黎明期にあった大小さまざまな個性あるテキストサイト、ゼロ年代のブログたちが、やがては画一的なソーシャルメディアの(断片によって構成される)奔流に飲み込まれ、消失していった歴史的経緯を想起させる。

水場、はことばの出づる場所と読める。この詩において彼女と「私」は明確に区別されてはいない。「私」は川になったのか。それはかたられてはいない。川になったのは彼女であり、ソーシャルメディアでもっとも手っ取り早く耳目を集める方法である誇張された右派的言説や左派的言説を注意深く避けつつ、ただ細い水流となっていきのびた(かもしれない)ことばの隘路がかたられるのみである。小さく、プライベートなものであった水道はもはやどこにもなく、あるのは貌をうしなった茫漠たる水流のみである。そんな大崎のえがく風景には薄色の、やわらかな絶望がある。それは、なりたいものに「なれる」と嘘をつくような優しさに基づくものだと思う。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、「黙祷」を挙げたい。
(次点は、「炊飯器」)

なんのために、だれのために黙祷が行われるのか。ほんとうに弔うべきものを秘匿するためか。政治的キャンペーンのためか。自己満足のためか。答はそのいずれでもありそのいずれでもなく、わたしたちが発することばはいつだって矛盾し、愛していて、同時に、憎んでいる。

この町には
黙祷の
アナウンスがある

恒久平和を
ねがって
黙祷
するという
清潔な
朝の道
草と葉を糸で
繋ぐ蜘蛛
近くに
駅へ急ぐ人の
アラームの
スヌーズ
遠くに
豆腐屋の撒く
水が散り
もっと遠く
海のイルカと
水族館のイルカの
交信 地球の
裏側の
もようを伝える
テレビ あれは
何語でしょうか
スポーツ選手が
泣いています
勝ったのか
負けたのか
試合に
出られなかったのか
それはちょっと
わかりません
黙祷を
終わります
ありがとう
ございました

無責任な
アナウンスが
祈りのために
時間をつくり
長すぎないように
終わらせる

行方不明者の
お知らせです
同じ声の人の
午後の仕事
大勢に
拡めるための
ざっくりとした
情報

黙祷が
停戦の
合意のために
機能するとき
黙祷は
どの国の言葉で
アナウンス
されるのか

(わたしたちは
どんな安心が
ほしいのか)

ほどよい距離に
人を求めて
あなたと
わたしは
互いに
叫ぶ
行かないで
それ以上
近づくな

「黙祷」全文

(2018年10月26日)

大崎清夏『新しい住みか』書籍情報
新しい住みか
出版 青土社
発行 2018
著者 大崎清夏(おおさき さやか)
価格 1600円+税
新刊 e-hon / 古本 Amazon

 

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