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服部誕『右から二番目のキャベツ』

——あなたとの適切な距離をたもち、二番目にえらばれる日を待っている。

◇ ◇ ◇

詩と書評のサイト《千日詩路》サウザント・ポエジーへようこそ。

本日は月曜日。今日わたしたちが読む詩集は服部誕の『右から二番目のキャベツ』。著者は一九五二年兵庫県芦屋市生まれ。詩集に『首飴その他の詩篇』(一九八六年)、『空を飛ぶ男からきいたという話と十八の詩篇』(一九九二年)、『大きな一枚の布』(二〇一六年)がある。本書は二十四編を九十頁に収める。

それでは読みはじめてみよう。「真夏の夜のビーコンライト」から。

無限に下降してゆく音階に似た遠い地ひびき
長距離トラックとオートバイの幽かな車音が
開けたままの窓の下をとおりすぎてゆく
妻のたてる深い寝息にかさなりながら

暗い天井のはるか上空を通過する貨物輸送機は
ビーコンライトのあかい輝点を
規則正しく明滅させている
無音のまま刻まれてゆく〈時〉のように

だがその閃光もやがては
網膜を走る血の脈動に同期して
ゆっくりと夢のない眠りのなかに沈んでゆくのだ

「真夏の夜のビーコンライト」第一、二、三連

ビーコンライトとは、著者の注によれば、航空機同士の衝突を避けるために胴体の上下に取り付けられている、あの赤色の閃光灯をさすそうだ。

個人的な話からはじめると、わたしは大きな空港がある南国の港町育ちで、その街は、空をみるといつも飛行機がそこにあるようなところだった。いつも夜になると、その暗い空には小さな赤く明滅する光があって、ゆっくりと横切っていっていた。それはだれかへのメッセージのように見えたが、もちろん、それは単に衝突を避けるための道具にすぎなかったのだろ。

わたしたちは自分のまわりにある距離をたもっている。そこを踏み越えてくるものとは、喧嘩になるか、または愛しあうか、そのどちらかしかない。とある小説家はそれを「殴り合うか、性交するかしかない」と書いていた。その適切な距離をたもつために、想像上のビーコンライトが必要なのかもしれない。近すぎてもいけないし、遠すぎてもいけない。

詩は遠ざかる車両たちの音をともなってはじまり、それが他者(この詩集ではそれに「妻」という名前があたえられている)の遠ざかる(また近づく)寝息とかさねられている。それは横方向への距離、そして縦方向の時間の広がりをみせ、そこに小さな球状の詩的空間……記憶がつくられているように感じられる。

だがビーコンライトはそこに存在していない。それは見えないまま天井のあちら側、頭上に想像されているだけだ。それは自分と自分に関係があるものだけが配置された家屋の外では、ありとあらゆるものが距離を保ったまま適切に管理され続ける現代社会を思わせ、一方、その内側では、距離をたもつことが難しい関係性が示唆されている、と読める。それはやがては眠りのなかにすべて消えていくべきものだという示唆もある。すべての臓器がやがては動きをとめるように。

八百屋の店先に並べてあるキャベツの
右から二番目のを買ってきて
おおきな鍋でまるごと煮ると
それを食べたひとはきっと
しあわせになれるという言い伝えが
北欧の細長いかたちの国にはあるとしゃべりながら
自転車に二人乗りして
わたしたちを追い抜いていった
中学生くらいの頬を赤くした女の子たちよ
わたしは今 娘の手をひいて
やわらかい春のキャベツを買いに行く
ちょうどその途中なのだよ
ありがとう

「右から二番目のキャベツ」全文

今回わたしがこの詩集を手にとるきっかけとなった、詩集の題名ともなった詩。「なぜこのタイトルなのか」ということがとても気になり、かなり以前から読もうと思っていたのだが、その日から一年もたってしまった。

非常におもしろい題名だと思う。まず、なぜそれが二番目なのかという問いがある。キャベツはそもそもいずれも置換可能なものであるという読みがまずある。たいていの場合、スーパーの棚に並べられたキャベツはどれも同じにみえる。その前に立つと、どれを選んだらよいかわからない。よって、適当に選んだものが、たまたま二番目であった、という読みがまずある。つまり選択はされていない。

もうひとつは、なんらかの理由で、二番目でなければ・・・・・・・・ならなかった、という読み。たくさんある(おそらく数十個はある)うちから、二番目でなければならなかった理由がある……または理由はないが二番目でなければならなかった、ということが考えられる。偶然だが、やはり必然とよぶほかないなにかがそこにあり、それが「キャベツ」と名付けられているのではないか、ということを、最初にこの詩集の存在を知ったときに思ったことを思いだしている。

いま、実際に手にとってこの詩を読んでみて、わたしの読みはどちらもはずれたようだ。キャベツは書き手が選んだものではなく、その選択という行為は第三者・・・によるものであり、通り過ぎてゆく中学生たちの雑談のなかにあるものでしかなかった。それは適当に選ばれたようでもあり、また、出所のわからない北欧に伝わる言い伝えという物語を間におくことによって、意図的に選択されたもののようでもあり、そのいずれでもないようなかたりが展開されていた。つまり、選択は不可能であった。

詩のうちでは「二」が繰り返されている。キャベツは二番目、女子中学生は二人乗り、語り手は娘と二人。そこに追い抜くもの/追い抜かれるもの、しあわせ/ふしあわせ、食べたもの/食べなかったもの、もかさねられている。それは選択できるものと、選択できないものの間に宙吊りにされているわたしたちの姿を浮かびあがらせもする。キャベツはつねにn番目であるほかない、ともいえる。

キャベツにまつわる噂がほんとうであるかどうかは怪しく、また「北欧の細長いかたちの国」と名前を書かないことによってそれが伝聞であることも強調されている。だが、それにもかかわらずそのキャベツは確かに、食べた人間をしあわせにする力があるような気にさせられる。

それがあきらかな嘘であるとはっきりとわかっているがゆえに、と書いたほうがいいだろうか。とても好きな詩だ。

わたしの長年愛用しているキーホルダーは
四本の鍵を納めることができるものなのだが
もうだいぶ前からずっとそこには
鍵が三本ぶらさげられている

まんなかにある鍵は我が家の玄関の鍵だ
長く使っているので時々うまく回らないことがある
右側の鍵はおととし他界した母がひとり暮らししていた
いまはもう空き家になっているわたしの生家のもの
左側のは遠く離れた町で働いている息子のアパートの鍵だが
引っ越しの時に行ったきり一度も使ったことはない

キーホルダーにはない四本目の鍵は
わたしのこころのなかにまだまちがいなく存在している
忘れてしまった幸福だ
いまも記憶に残っているほんのすこしの幸福でなく
すでに忘れられた幸福のおおきさが
わたしの生きてきた歳月をゆたかなものにしている

「鍵」第一、二、三連

その不在によってあきらかにされるものがある。ふつうひとはたくさんの鍵をもっている。わたしの家にも過去の生活で使ってきた鍵がたくさんある。そのどれもがどこの鍵であったのか、まったく思いだせないものばかりだ。

この詩でえがかれているのは、だがそういう鍵ではない。それはまだ使っていない鍵であり、存在していない鍵であり、これから使われることはわかってはいるが使われないまま予約されていることによってその空白が際立ってしまうようななにかである。それはふつう「死」と呼ばれる。

忘れてしまうこと、うしなわれてしまうことがはっきりと予感されていること、そしてそれが「生きてきた歳月をゆたかなものにしている」様子が書かれる。わたしたちがなぜ詩を読むのか、なぜ喪失の物語を必要としてしまうことがあるのか、そのことをあらためて思いださせてくれる詩だ。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、悩んだが、「箕面線の果てしない旅」を。

最近、とある友人と話していて、自分の二歳になる娘の話となった。かれは結婚もしていないし、子供もいないので、子供のことはよくわからないといっていた。

じつは、わたしも、子供を育てるとはどういうことか、いまだによくわかっていない。生活費を稼ぎ、子供の世話をして、料理をする。そしてそれはほとんどのひとがふつうにしていることの一部で、親でなくともできる。親であるとはなにか、わたしにはわからない。

詩では、子供の「小さな世界の果て」に付き合う親の姿がえがかれている。だが、ほんとうの世界の果ては、国境を越えた彼方ではなく、むしろこんな場所にあるのではないだろうか。それは遠い記憶の中にある風景であり、そこに歩いていくことだけはけしてできないが、それでもなお、いつでも帰ることのできる場所であると思う。

親であることはどうしてこれほどつらいのか。詩はそれになんの答もあたえない。親はどうしたらよいのか。そこになんの答もない。そこにはただ偶然が、n番目にえらばれる宿命があるのみである。そんな残酷な世界の果てを、わたしたちは愛する。

小学校に入学するまで無類の電車好きだったわたしの息子は
阪急電鉄箕面線に乗るのがなによりの楽しみだった
休日になると我が家のある箕面駅からふたりで乗りこんでは
息子が堪能するまでこのみじかい盲腸線を何往復もした
いつも一番前の席から運転席や前方風景を夢中になって眺めては
運転手の発する声をまねて
「シュッパツシンコー」「シンゴーヨーシ」と大声で復唱する

明治四三年に開業した箕面有馬電気軌道を起源にもつ
片道六分の箕面線は
宝塚線石橋駅と終点箕面駅を折り返し運転する
あいだに桜井駅と牧落駅があるだけのわずか四駅四キロの路線

石橋駅に着くと後者側の扉がさきに開くが わたしたちは降りずに
乗車側扉が開くまえのまだ誰も乗りこんでいない電車のなかを
最後尾つまり箕面側先頭車両まで大急ぎで移動する
箕面駅に着いたときにはおなじようにして
石橋側先頭車両までそのまま車内を駆け戻るのだ

目の前に見えていた線路が行き止まってしまうこのふたつの終着駅は
おさない息子にとってはおそらく〈我らが世界の果て〉だっただろう
四輌連結の電車のなかを行ったり来たりしながら
世界の果てからもう一方の世界の果てまで
四本のレールの上の全世界を何度も何度も往き来した至福の時間

「箕面線の果てしない旅」第一、二、三、四連

(2018年10月22日)

服部誕『右から二番目のキャベツ』書籍情報
右から二番目のキャベツ
出版 書肆山田
発行 2017
著者 服部誕(はっとり はじめ)
価格 2400円+税
新刊 e-hon / 古本 Amazon

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