宮尾節子『明日戦争がはじまる』

※本稿は根本正午の個人ブログ「仮象の帝国」を初出とし、再掲にあたって大幅に加筆修正を加えた

今年も、わたしたちはふたたびあの敗戦の日をむかえる。

波が寄せている

白い波が寄せている
何も知らずに寄せている

いつものように
寄せている

着のみ着のまま
白いままで――
寄せている

「波が」 冒頭

――あのひとのことが好きだった、と嘘をいっている。いや、嘘ではない。嘘ではないはずだが、いつの間にか嘘になっている。男女の関係においてしばしば事後的に見出される「好き」という気持ちは、別れを経なければ生じない。「あなたとはもうやっていけない」と女にいわれたとき、はじめて「好き」という気持ちが男のうちに発見され、創出される。

ひとは思っていることとやっていることを同じものにすることはできない。
ひとは書いていることとやっていることを同じものにすることはできない。

◇ ◇ ◇

本日、わたしたちが向き合う詩集はアンソロジーで、これまで取り上げてきた詩集とは少し異なり、ソーシャルメディアで爆発的に拡散された詩作「明日戦争がはじまる」を中心に、著者・宮尾節子の詩を編んだものである。巻末注に「「明日戦争がはじまる」は、著作者の氏名を表示し、改変を行わない限りにおいて、自由に転載・翻訳・朗読・公衆送信することができます」という珍しい但し書きからも、その成立のユニークさが伺い知れる。宮尾節子は高知県出身、多数の詩集の著作を持ち、朗読をはじめ幅広い活動ですでによく知られる詩人だ。

◇ ◇ ◇

まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった

インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった

虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった

明日戦争がはじまる」 前半

複数のソーシャルメディアによって構成される総体としてのインターネット。そこはひとを傷つけることばで満ちあふれている。いや、こういいかえたほうがよいかもしれない。ひとを傷つける無理解であふれている、と。だれしもが理解を毎日もとめてさまよっているが、だれもその理解をえられない。だれしもが理解をえられると誤解しているが、えられるのは理解のかたちをした誤解だけである。だれもが理解を「いいね!」の数に比例してえられると考えているいるが、実際にえられるものはむなしい。これを別の言い方でいえば、だれしもがベストセラー作家はよく・・読まれていると誤解している。それではよく読むとはなにか。そもそも理解とはなにか?

わたしは

かかなかった
戦争詩を。

わたしは

しなかった
苛めを。

(…)

わたしは

とめなかった。

とめなかった

詩の連の改行にあらわれる空隙を、つい埋めたくなってしまう一読者としてのわたしはよごれている。なぜならその空隙を見つめると、さまざまな私的な記憶が喚起されてしまうからだ。それらは子供に「このばか」と叫ぶ父の紅潮した頬であり、家人に「そんなこともできないのか」と叱責する声であり、障害者が駅で困っているところを見てみぬふりをして通り過ぎるクリーニング済みのスーツの香りなどだ。

ひとは「しなかったこと」と「してしまったこと」との間の絶望的な乖離の中に生きている。ひとは「してしまったこと」を、なぜしてしまったのかと考える永続的な問いの中に生きている。答をえることはできないし、答はけして見つからない。そこにあるのは「とめなかった」自分であり、そしてそれは事後的にしか見出されない。

みんな
てのひらになにかのってた
ひびのはんどる
あかんぼう
はくぼく
つちのふくろ
くすりばこ
じゅんばんひょう
(…)
みんな
てのひらになにか
のせてた
みんなでない
からっぽの
てのひらがなにか
いのった
みんなのために

てのひら

だが、祈りはとどくだろうか。いかなる大切なものも事後的にしか見出されないのであれば、ひとはいま手のひらに乗っているものをあたりまえの、つまらないものとしか思わないのではないか。その遅れ、不可避の遅れについて宮尾が知らないはずもなく、この詩作品では一見成立したかのように見える祈りもまた「のってた」から「からっぽ」への推移によってうしなわれることが示唆される。

たとえインターネットでわたしたちはいつでもだれとでもつながっているが、そこには実のところつながりがだれからも剥奪された空虚しか存在していない。そういうことを思い起こさせる。

言ってくれたらと
思うことが、何度もあった

言ってくれたら、そうしたのに
言ってくれたら、そばにいたのに
言ってくれたら、それを買ったのに
言ってくれたら、そこに行ったのに
言ってくれたら、それが分かったのに

惜別」 冒頭

ことばはつねに遅れて届く。わたしたちの理解もまたかならず遅れて届く。この世に、遅延せずにとどくものはなく、わたしたちの祈りはつねに遅れ、今日もソーシャルメディアが傷を無限に再生産し、インターネットに拡散しつづける。《あのひと》がいなくなった場において、あのひとがかえってこない場において、わたしたちはあのひとへ届かないメッセージを送り続ける。

読むことは、その遅れについて知ること。そして書くとは、理解されることのないことばを、とりもどせぬ過去へと送ろうとすることだ。宮尾の詩は不可避の遅延について書く。その矛盾と真正面から向き合った時、ことばは壊れる。それが「戦争」だとわたしは理解している。

(2017年10月2日 初稿)
(2018年8月15日 改稿)

宮尾節子『明日戦争がはじまる : 宮尾節子アンソロジー』明日戦争がはじまる
宮尾節子
2014年12月発行

葉山美玖『スパイラル』

※本稿は根本正午の個人ブログ「仮象の帝国」を初出とし、再掲にあたって大幅に加筆修正を加えた

夜の店の女たちは名前をいつわる。ほんとうの名前は客の男に教えるべきものではない。大切に隠されたものを、たかが一晩数万円程度の相手に売却はしない。そのいつわりとはつねに細心の注意をはらってつくりあげられるものであり、それをほんものと区別することは、つくった本人にもできない。『マクベス』の魔女を思い出すまでもなく、いつわりこそはほんものであり、ほんものこそがいつわりである。その矛盾、それを希望とよんでみたい誘惑にかられる。

わたしはことばを信用しない
一万円札なんまいかを信用する
あんたが一万円札なんまいかを
いつでも投げ出したいひとがあんたの希望だ

「あまえない」後半

◇ ◇ ◇

葉山美玖は一九六四年東京生まれ、さいたま市在住。本詩集『スパイラル』で第49回埼玉文芸賞詩部門準賞受賞。個人詩誌『composition』を発行している。本詩集の装幀画は藤沢彦二郎の手によるもので、夜の路上で若い女性がひとりで携帯の小さな画面をじっと見つめる姿が描かれている。

◇ ◇ ◇

ひとは、生々しい現実の手応えを人生におけるさまざまな出来事によって掴んでゆく。わたしの個人的な思い出をかたるならば、それは「日本語もろくにできないくせに」と学校でいわれて帰宅する路上にのびる影であり、「あなたが好きなのは自分だけ」といって女が出ていった後にホテルの部屋で煙草を吸う夜であり、「子供と家族を捨てたくせにえらそうなことをいうな」と親戚に説教される午後三時の喫茶店でもあり、十年かけて必死に書いてきたブログを一つ残らず削除した夜のしずけさでもある。

現実、はさまざまな形をとる。現実の手応えとは具体的にどのようなものか。葉山はそれを「自分の足で歩く」と表現している。

父とまたしても喧嘩して
しばらく会わないことにして
靴の裏をぺたんぺたんと
地面にくっつけて歩いていると
私はようやく自分の足で歩くことができた

どこまでも真っ直ぐに
一人きりで歩いて行くことは
自信はつくけれど
とてもとても頼りないことで
私は素直にボーイフレンドの前で泣ける気がした

暗い道路には信号の青が照り映えていたけれども
いつもの食堂は臨時休業だった
部屋の鍵をかちゃりと開けて
たらこと大葉のスパゲッティを茹でて
レタスと林檎のサラダに人参ドレッシングをかけて食べた

「ミント色の靴」 第一、二、三連

現実、または《世界》はさまざまな出来事の断片の総体としてたちあらわれる。ばらばらになったわたしたちの見る現実はそれぞれ大きく異なり、その異なりに気が付かないまま、ひとの生活のなにもかもが暴露されているかのようにみえる現代社会において、すれ違いそのものとなって生きざるをえない。「真っ直ぐに/一人きりで歩いて行く」と決めた書き手の行き先が臨時休業だということは示唆的だ。

葉山の詩集を読み進めながら、自分が夏の朝が自分のもっとも好きな時間であるということを思い出す。もえあがる光が東の地平線から街を覆いつくすその瞬間をきらいな人間がいるだろうかということを思い、そして遠くの夏の個人的なある朝のことをふと思い出す。詩のかたちとなった記憶を通して、自分の記憶があざやかによみがえる。あるいは取り戻してしまう。詩にはそういう力があり、そこにけしてつながることのできないわたしたちのつながりを取り戻す可能性があるのかもしれないということを思う。それは嘘かもしれないが、その嘘は好ましい。

あなたの精液を根こそぎ絞り取った朝
井の頭公園の夏というより春めいた街灯を歩き
各停の始発はゆっくりとよろめき
セーラー服の少女の出立姿を見つめている学生服の少年の
視線にきらめくような陽光が浮かび上がり
そうあれはわたしでした

朝の街灯」 冒頭

だが現実とはそのほとんどの局面において残酷なものであることをわたしたちは知っている。ソーシャルメディアに日々拡散される《このわたし》の物語に目をやれば、生まれなかった子供、こわれてしまった婚姻関係、破綻してしまった事業など、ひとの命をぎりぎりまで追い詰める出来事にわたしたちはけして事欠かないことがわかる。そのそれぞれの困難な人生において、いかり、かなしみ、殺意はもっとも親しい友人というほかない。そして一度生じたそれらはまるで当然のような貌をしてこころの中に居座る。居座ってたまに叫び声をあげる。追い出そうとしても出てゆくことはない。いつでもそこにいて刃を磨いている。それは外に向かう前に、まず自分のこころにまっすぐ向けられている。

私は殺す
五才の時の朝焼けを殺害する
十七才の時のうろこ雲を殺害する
三十二才の時の俄か雨を殺害する
一度コロス度に激しい咳が出る
(…)
人を殴りつけていると
私はどんどん空の電線に縛り付けられて行くようだ

私の咎」 冒頭、結び

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩は、次にあげる「IN/OUT」だ。

昨日、先生に言われたこと。

「詩で他人を傷つけてはいけない」
シデヒトヲキズツケテハイケナイ
シデヒトヲキズツケテハイケナイ
その言葉は私を何だか不意に打ちのめした

帰り道に
いろんな人の姿を見て
若い手を繋いだカップルや
自転車に乗った小母さんや
くたびれたベレー帽を被ったお爺さんや

たぶん皆が皆
それぞれの思いを抱えて
くすくすと笑ったり
ビルの影でしのびないたりしているのだと思うと

黄葉し始めた木々の葉っぱの匂いや、
道端の定食屋の油の匂いや、
選挙のポスターの糊の匂いまでが
私の鼻孔に押し寄せて来る気がした

イン・アウト
イン・アウト
呼吸をしているうちに、
私は今、世界と生まれて初めて繋がり始めた

IN/OUT

葉山は、詩で他人を傷つけてはいけない、といわれたと書く。だが他人を傷つけない行為があるだろうか。他人を傷つけないことばがあるだろうか。わたしたちは知っている。この世のいかなる行為も、いかなる感情も、いかなる事象も、だれかの開かれた傷の中からしか生じないのだということを。二〇一八年に生きるわたしたちは知っている。この世のいかなるものも、はてしなくひとを傷つける《世界インターネット》を経由することなしには、いっさい手に入れることができないのだと。

そこに書かれていることは傷こそが世界へとつながる道だということ。その理解にふいに打ちのめされる。そのぎりぎりの場における理解と、それがもたらす目眩をわたしは読者とともに共有する。あるいは、裂け目からしか見ることができないこの世界のほんとうの風景を共有する。

《世界》は傷にまみれている。《このわたし》は傷ついている。その傷からながれる血はことばとなって氾濫し、いまこの現代にみちあふれている。それは詩の読者だけではなくありとあらゆるひとをとじこめる電磁的な牢獄であり、そこから逃れる道とは、「IN」と「OUT」が同時に貼り付けられた裂け目にしかない。

詩は不可能な解をしめした。ひとを傷つけてはならない。だが……の後につづく聴くことのできないことば、それが希望なのかもしれない。それを他人に与えてもらうことはできない。

(2017年9月29日 初出)
(2018年8月14日 改稿)

葉山美玖『スパイラル』書籍情報
スパイラル
出版 モノクローム・プロジェクト
発売 らんか社
発行 2017年
著者 葉山美玖(はやま みく)
価格 1200円+税

大山元『記憶の埋葬』

それほど深くない深度・・・・・・・・・・の波打ち際、そこにわたしたちは立っている。かつてだれかにとって大切だったことばたちはただの石ころとなって、あるいはくだかれた瓦礫となって、波に洗われうちよせる。その忘れられたしずかな光景の上に風が吹く。

あさの光りをすくいあげて
のみこむ時のしずくは
露のしたたりより とおい
目をした風のうずまき

あかるくまぶたとじて
身をよじる木の葉にふれる
むきだしの声にほほえみ
指はくちびるをたしかめる

根源へ

酷暑の週末を超えて、わたしたちはふたたび暑い月曜日をむかえ、九冊目の詩集と向き合っている。

本日の詩集、『記憶の埋葬』は大山元の第一詩集、年齢は七十代、百十二頁に二十三編を収める。著者より頂いたこの詩集について書こうと思っているうちに時間が過ぎた。ただ、わたしが最近ひとの詩集を毎日読み返していくうちに気がついたことは、詩集と(あるいは特別なテキストと)めぐりあうためには、なによりもその時間が必要なのだということだった。それはひととひととの関係が一朝一夕ではできないのと同じで、読むということもまた、不定形の石ころを波打ち際に積み上げてゆくような、不確かでもろい関係性をつくる作業に相似する。別の言い方でいえば、対象を再読リ・リードすることによってのみ、そこに新たな見たこともない自分を発見する《ことがある》

《千日詩路》は、ひらかれたウェブの読者にむけて、詩の紹介を行うサイトである。よってわたしは、詩を特権的に取り扱う磁場から可能な限り離れる加速度をたもちつつ詩集や詩の雑誌を買ったことがない読者にむけてかたらねばならない。だがそれは必ずしも平易な文体を用いることを意味するものではない。

 

おびただしく生きてきて何を見たのか
目で見ただけでは何も見たことにはならない
本当に見るとはことばで強く信ずること
その時はじめて現実はほほえむ

愛憎にあふれたくちびるは裂けはしない
幾たびもかさねてまいちる落下の雪に
ふみ迷う一瞬のふるえが喉元をただよい
にがい声を突き放してほうむる

夜から朝へ墓石のおもさは容赦をしない
ちかづく悲しみをせおったどの死者も
息絶えるうつくしさにきらめくあしたに
待ち受けて見えない斜面を見てきた

寡黙な時間」第一、二、三連

では、そうした読者にとって、「目で見ただけでは何も見たことにならない」とはどのように解釈されるだろうか。個人的な話を持ち出せば、わたしは昨年娘がうまれて、結果として毎日のようにベビーカーやキャリアを使うようになった。その時はじめて、町には子供を連れた親がたくさんいることに気がついた。つまり、目はあったが、認識していなかった。

ろくに歩けない、水も食事も自分では取れない、虫に刺されては泣き、体温調整ができずすぐに熱中症になりうる脆弱な生き物を伴って町中を歩くということ、そのために必要な補給品などをすべて準備した上で外出するのが「子供を連れた親」だが、わたしはかれらの大変さをまったくわかっていなかったので、かれらはかつてのわたしにとっては透明な存在だった。

そうしたことを思い出すとき、「本当に見る」ということばのむずかしさが胸に染みる。だがそのすぐ次に、「ことばで強く信ずる」とある。どういうことか自問してみる。なぜならおそらく強い意思といったものではほんとうに見ることは叶わず(子供をえる前のわたしがそうであったように)、そして著者はそのことを知っているように感じられ、とするとここでいわれている強く信ずれば現実がほほえむということはあからさまな嘘または脚色ではないのかという考えをピン留めし、読み進めてみる。

死のはじらいはガラスの若葉でおおえない
よこたわる棺をかかえてひとり生き残り
憎愛にみちた不協和音が視座をいろどる
目にうかぶことすらないことばで物語る

隠しきれない沈黙のまくあいをまつ
歳月の運命をあやつる二重螺旋に囚われ
帰るところもない風の幻視にからまれ
羞恥が浮く夕映えの空に飛んでゆく

(同上)

くりかえし見えることのないものが強調される。一般的には物理的に触れるものだけで構成されていると考えられている世界は、じつは見ることも触れることもできないことばによってその多くが構成されている。そのことを想像力によって捉えようとしていると感じる反面、ここで隠匿されているのはなんらかのプライベートな、私的な出来事であり、それを自ら解釈しなおし、再読しようとする試みに詩という名前が割り当てられているようにも感じられ、並々ならぬ切迫感がある。

終盤の三連を読む。

こわだかに警告するときの後ろめたさに
ぬくもる無知を一枚の告知として晒し
頭のてっぺんから串刺しにしたことばを
腐るまで抱えて 生きつづけるのか

怒りもなく怯えもなくかすむ立ちすがたに
くらい経験のしずくをすくい取り
だまりこくって笑うだけしか能のない顔で
最後の眠りにまだ 夜が足りないのか

饒舌な無言にふるえる残酷な慈愛は過去に
優雅な憎悪は未来に たえられない
なごりおしい寡黙な首をカミソリで
いま剔れるか!

(同上)

第一連で書き手がついた嘘を、カミソリでえぐり取ろうとする描写。矛盾するものたちがあつまりながら遠ざかろうとする静謐かつ劇的なフィナーレ(饒舌/無言、残酷/慈愛/、過去/未来)。それは沈黙をもとめるがやはり沈黙はえられないということでもあり、ことばを信じることはむずかしく、よって現実はほほえむことなどないということでもあり、あるいは詩を否定してもやはり詩にたどり着くほかないという切実な告白のようにも思える。そうした痛みや歪みを真正面から引き受ける、そこに書くことのさらに手前、いちばんはじめの出来事があったのではないかと推測する。

 

まぶしい夏にこそ死者たちは蘇る
誰にもそれを言ってはいけない
一瞬に凍りつく熱が
くちびるの表面を犯しはじめると
地平線のしたでねむっていた死者
たちは身をよじりながら
苛烈な光りにかおをさらけだす
死斑にただれた肌をたるませながら
瞳孔をひらいてこの世をジッとみつめる
目の前でひろげられる祝福をみているのだ

夏の光り」冒頭

ふたたび相反するものが並列されている。わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。
土の中にうめられたものがあばかれる夏のはげしい光が、詩をとおしてあたりに立ちこめる。詩集の全編を通じて色濃く漂う暴力の気配に伴われ、埋葬したはずのものがふたたびよみがえる。「この世に片づくなんてものは殆どありゃしない」とうそぶいた漱石をひくまでもなく、わたしたちは自らのこころに問えば、真になにかを葬ることがいかにむずかしいことか知ることができる。そこには忘れたいが忘れられない記憶の破片がころがり、愛と憎しみがわかつことができないほど混ざり合い、こじれた関係の結び目がほどかれることのないまま放置されている。

かたってはならないことを口にした瞬間、唇は凍りつき、死者たちはよみがえる。だがそれをとめることはだれにもできない。なぜなら、禁じることそのものがそれをあばきたいという欲望を生むからだ。さまざまなものを照らす真昼の光にあばかれたまま、死者たちに囲まれ、かれらとともに現在進行形の死を生きるほかない。

そしてふたたびわたしたちに夏がおとずれる。
知る、記憶する、葬る――そのいずれもがはてしなく困難だという詩とともに、ことばの波打ち際をしずかにあるこう。

 

そのひとは誰も知らない
目の前を通り過ぎただけだから
そのひとを待つだけなのだろうか
知らない過去をもたらして
いったいどこからどこへ

誰でもゆくところは遠く
ひたすら何をおそれるのだろうか
誰もわからずにあるがままに
はげしくせまりくる予感にむかい
生きすぎることが怖いのだ

そのひとは」第一、二連

(2018年8月13日)

大山元『記憶の埋葬』

書籍情報
記憶の埋葬
出版社 土曜美術社出版販売
発行 2015年
著者 大山元(おおやま げん)
価格 2000円+税

長谷川忍『女坂まで』

そういえば
一度とて
肌に触れたことがなかったと気づいた。
不思議だった。
もう長い間親しくさせてもらっているのに
握手ひとつ
交わしたことがないのだ。

今日、あなたから
葉書が届いた。
古い詩集だった。

詩集

本日もやや個人的な話から書き始める。わたしは山の手沿線をそのまま熱帯の海に浮かべたような狭苦しい大都市で育ったが、今年の八月に入ってからの関東の暑さはまるで熱帯か、それ以上に感じられる(なお《千日詩路》編集部は房総半島の隅に位置)。

こうした気候だと幼年時代を思い出すが、熱帯にいた時のことでよくおぼえているのは、そこに昔から住んでいたひとびと、つまりマレー人たちの褐色の肌のうつくしさだ。魅了されていたといってもいい。つややかで、肌理がこまかく、強い雨を水玉のようにはじき、暑さにも強い、そういう肌だ。それは熱帯という過酷きわまりない気候に順応するための肌であり、赤土と森と海と危険な動物相で構成される自然を生き抜くための肉体だったのだろう。

本日の詩集、『女坂まで』は長谷川忍の第三詩集。著者は一九六〇年神奈川県川崎市生まれ、京浜地区の下町で育ったという。「女坂」とは、神社や寺の参道などで、相対する二つの坂のうち、傾斜のゆるやかな方を意味する(傾斜の強い方は「男坂」)。

詩集は九四頁、二十三編を収める。全編を通じて特徴的なのは、読む者の過去の五感の記憶をつよく喚起する文体だが、それがなんによってもたらされているのか、具体的にこれと取り出すことはむずかしい。上の「詩集」という詩を読んで、わたしはマレー人のクラスメイトの背中からうなじ部分にかけての肌のことを思い出したが、それはもう二十年以上前の記憶であり、さらにいえばそのことをいままで完全に忘れていた。いや、喚起されたことによって記憶が創出されたのかもしれない。詩にはそういう力がある。

 

清楚な路上に
蹲っているものがあった。

鳩だった。

蹲っているのではない
死んでいたのだ。

亡骸に触れてみた
それから
慌しく傍らを通り過ぎる
通勤者たちの口元を見つめた。

亡骸を目立たない場所に移し
再び朝の顔のひとつに戻る。

腹の底のほうから
突き上げてくるものを
かろうじて呑み込んだ
久しく忘れていた意志だ
どうしようもない意志
ぼろきれのようなもの。

今夜
ごつごつとした肌に触れた時
鳩の感触が
甦ってきたのだ。

全身を硬直させながら
私の底でじっと蹲っている
塊を引き寄せてみた。

同じように、子供の頃に河口でみた巨大な魚の死骸を思い出す。棒で押すと、水にうかぶそれは丸太のように、ゆっくりと沈んでいった。それは腐ってはいたが、どこかごつごつとしていた。わたしたちの生活にとって不要なもの、いらないもの、おそろしいもの、は、どこか角ばっていて、容易には消えてなくなってはくれない。そしてそうした死骸がわたしのこころのどこかに浮かんでいることを感じる。それは自分が殺したものかもしれないし、他人が殺したけれども自分に責があるものかもしれないし、あるいは自分が見殺しにしたなにかかもしれない。書くことはそれを自らの手元に引き寄せることであり、こころのうちに死を取り込むことでもあるということを思う。長谷川は忘れてはならない、と書いている。それがいかにぼろきれのようなものであろうとも。

 

赤い花がいい
内側からとめどなく零れてくる、抑えきれない、赤
花弁に触れたとたん
赤さだけが
触れた人の内蔵にまで入り込んでくるような。
マッチを擦っている老女にきな臭い懐かしさを憶えた
果実も、雨水も、昆虫も、男も、女も、子供も、空も、川も
体液を塗ったきな臭さがある。

営み

引用した部分の外に、その光景は写真のもので、インドネシアのバリで撮影したものを鑑賞している書き手の姿が示唆されている。だがわたしたちはかつて戦後もの凄い速度で成長したこの国の記憶をも持っている。それは公害で灰色になった大気の記憶であり、きれいに清掃される前の泥まみれの街路の雨のにおいであり、あるいは体液の汚れを隠さなかった子どもたちの記憶でもある。それはもう日本ではほとんど見なくなったものだが、バリ島に重ね合わされる風景は、著者の想像力の源泉がかつてあった路地にあることを示唆しているように感じられる。

「触れる」という詩も、触覚を通じてつよく喚起されるものがある。「汀に/盛りを過ぎてしまった/半夏生の花//ふるえながら/咲いている。//ひっそりとした
つぶつぶの白い花に触れると/忘れかけていた生々しさが/指先の奥から甦ってくる。」なにかを五感を通じて蘇らせることによって、詩がはじまっている。

 

宵の狭間に
カンパニュラが咲いている
濃い花弁を見つめた。
一年経ったのだ。
女坂を下りたところで
身体に溜まっていた
陰を
おもむろに突き放してみた。
昏れていく路地の隅
花の青さが
わずかに残っている。
夏にはまだ早い
春とも違う。
陰は
匂いに被さったまま
こちらをじっと窺っている。

「天神下」

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。詩集の題名の由来でもあるはずだ。
詩集の全体を通して、書き手たる個人の物語が断片的に語られるが、そこにはある一人の喪失が見え隠れする。「一年」はおそらくその喪失より数えた月日なのだろうということを想像するが、それについて第三者がなにかかたるべきではないだろう。

語り手はゆるい傾斜をくだり終えた後に陰を突き放す。そして突き放した陰にみつめられている。陰は花に偽装し、いつか書き手のところにふたたび戻ってくるだろう。女坂までたどり着いた後それを下るにせよ登るにせよ、その背中には陰がぴったりとついてくる。

愛しているのか、愛していないのか。求めているのか、求めていないのか。登るのか、それとも下るのか。その両義的な、曖昧な昼と夜の狭間に花がひっそりと咲いている。うしなわれたあのひとがいる、そしていない光景。その不可能な光景を、想像力によってかくとくする。こころが思わず動く驚きがある。

遅い冬日は
人々と
町をも潤ませる
そんな時
町もひとつの肉体なのだ

暮色

(2018年8月10日)

長谷川忍『女坂まで』書籍情報
女坂まで
出版社 土曜美術社出版販売
発行 2015年
著者 長谷川忍(はせがわ しのぶ)
価格 2000円+税

井上瑞貴『星々の冷却』

個人的なことからかたりたいと思うが、わたしは八月が一年を通じてもっとも好きだ。それはわたしが育った熱帯の島国シンガポールの気候を思わせる。アスファルトの路面は一年を通じて焼けただれ、水蒸気がまるで霧のように街をすっぽりと覆い、はるか頭上を巨人の踵のような雲がゆっくりと横切ってゆくだけの光景。日光の熱をおびたコンクリートは真夜中を過ぎても人肌のようにあたたかく、やさしい。だが、星をみた記憶はない。大都市のビルのはなつ光でかき消され、星はまったくみえなかったのだ。

夜空について書かれたものが永遠なのは冷却されているからだ
星々に隠してきたものがあばかれることがあってもそれは冷えている
猫も家の前の石段を毎回数えなければ登ることができない
真冬には川の気配さえ凍る
あたたかくしてください

「雨は重力の平行線である」といった言葉に出会ったのは四ヶ月前だが
それから五ヶ月たった
戦闘を望む戦争がおわると戦闘を望まない戦争がはじまるそれは冷えている
口には砕かれた会話をつめこんで
なぜ氷のようにとけてしまわないのかと問うばかりだ
冷えているものは冷えているからいい
あたたかくしてください
悲しませてください

星々の冷却

本日紹介する詩集『星々の冷却』の著者、井上瑞貴は一九五五年愛知県生まれ、福岡在住。他に『坂のある非風景』(一九八四年)と『丘の零度』(一九八九年)の著作があり、この『星々の冷却』は、八十八頁、詩二十五編を収め、第四十七回福岡市文学賞を受賞している。

詩集の題名でもある詩「星々の冷却」は巻頭におかれ、一行ごとに切断と跳躍を繰り返す構成によって《このわたし》とそれを取り巻く世界とのさまざまな距離があらわされる。たとえば二連目の一行と二行目、四ヶ月前と五ヶ月の間にあるはずのものは除去されていて、それはまったく切れ目のみえない接ぎ木を想起させる。

冷却された世界は抒情が取り除かれた世界でもあり、かなしみやくるしみのない場所でもあり、あるいはひとを傷つける行為を行わせしめるために人間らしい感情が除去される場でもあるだろう。わたしたちもまたそうした世界を――実利的な意味でも、自らのこころの救済のためにも――夢みることがある。「あたたかくしてください」の一行が胸につきささるものとして響くのは、だれしもが凍りついた感情を溶かすことを望む気持ちを持つ反面、それを行うことがあらたな痛苦をもたらすものだという背理がそこにあることを知っているからだ。

 

いつもの坂道を
きみなしではくだれない坂道としてくだり
これからも触れるであろうぬくもりを
遠くにあって
見出されず、それゆえ失われることもないきみにゆめみた

樹木にてのひらを当て
受話器のかなたに満ちてくる汐の音に耳を澄ました
満たされたものからひとつずつを失う朝までの長い距離を
冷気とともに目覚めつづけた

期限のない地点まで
傘をさして歩く
傘をさしてあるく方法を学びながら
きみとともに、きみなしで傘をさして歩く

これからもひとりだけが坂道をくだり
のがしてしまうためにある希望の各瞬間のために

もうひとりは坂の上に残される
なにかを忘れてもいい時間がながれる
もう思い出さなくてもいい時間がながれる

「そして愛のように虚しさに満たされ」

ひとは喪失をえられるか。あるいは《なくすこと》をえられるか。そういう問いが詩のかたちでそっと置かれている。現代社会に目をやれば、ひとのこころの中心にあるうつほがつくるひずみとしての傷を癒やすために様々な物語が創出されている。二〇一八年のわたしたちは、ソーシャルメディアを通じて大量に拡散される《このわたし》の物語、その傷の様々な有り様について知る機会をえ、その結果としてそのすべてに無関心になった。言い方を変えればそれらはどこかの他人の生活のくるしみに過ぎず、《このわたし》といっさいなんの関係もないものである。だから書くべきものは傷ではなく、傷をつくる喪失その中心についてかたらねばならない。えるために喪失をえる、それが「きみとともに、きみなしで傘をさして歩く」ことだ。

 

人びとのたましいから文化を洗い流す波が雨となっている
わたしは猫と同時に家に帰りつくことがある
視野を横切っていくなにかの翼を折ってわたしは落下できる
心理に降る雨の音符に耳をすますことができる
足跡のない動物の夜の遠い側にすべての猫を放って
同時に帰りつく日の雨に雨以外の音を与えることができる

「猫と同時に家に帰りつくこと」

「人びとのたましいから文化を洗い流す波」がどのようなものであるか想像に難くない。電磁的に符号化されたテキストの波は、それぞれのひとびとの人生そのものの航跡でもあり、その氾濫はめぐりめぐってやがてことばの雨となってこの世界にふたたびふりそそぐ。詩の「わたし」はその波がつくる雨を全身にうけて偶然の猫とともに帰宅する《ことがある》。だが夜のあちら側から足跡を残さないかれらと一緒に家に帰りつけるかどうかは偶然に過ぎず、しばしば帰宅には落下や断絶を伴うことが示唆される。家に一緒に帰ることは難しい。

ひとはたとえば、いつでも故郷に帰ることができると思っている。だがしばしばそこにあるのは形骸化した思い出だけである。かつてあった交友関係は消失し、行きつけの店舗は潰れ、友人たちはみなどこか限りなく遠くそして近いところ(たとえば、ソーシャルメディア上のきわめて上品に加工されたプロフィール写真の中)に移住してしまっている。ひとは、帰れない。帰れるという思い込みがそこにあるだけなのだ。詩は、困難な時代に不可能そのものを記録してしまう《ことがある》。

 

水に映し出されるものを所有し
数千の日付を見送った
深度のない地中をゆく遊覧船にのりこみ
絶景は闇のなかの点滅にすぎないと知った

放棄するものとして抱かれ
植物の盲目によって見つめられたあなたと
目覚めることのないひとつのベッドに横たわる
締め忘れた蛇口が
遠ざかる意識にむかって何かを語りつづける

「流星群」

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。
本稿の冒頭で書いた、わたしの子供時代の記憶だが、実は、見たことがないはずの南十字星がいまのわたしの記憶にはある。だがそれがいかなる場だったのか、いかなる相手と一緒に見たのか、それがすっぽりと抜け落ちている。わかるのはそれは偽りの記憶だということ、後日創出されたのだろうということだけだ。ひとはいつでも、「水に映し出されるものを所有」したがるものだ。それが幻影だとだれよりも知っていても、それが嘘八百だとわかっていても、である。

さからうペンを握り
語るべき最後の数行をあきらめながら句点をうつ
ぼくにない夜空をめぐる挿話の中をわたりながら
あなたの星は
なぜあなたの星は流れるのか

(同上)

だからさからうペンが必要だった。ペンであっても、キーボードであっても、すなわちテキストを記述せしめる道具が必要だった。なぜことばはさからうのか。それはことばが水に映る星の光に過ぎず、星そのものではないことをことば自身が知っているからであり、あるいは、水に映るものに託されているものがすでにどこにもないことを知っているからだ。だからことばは明滅しながら抵抗し、ほんとうにあったことを嘘へと書きかえる。

それでは《ほんとうのこと》を書く方法とはなにか。それはかたることのゆるされない数行をあきらめること、あきらめることによってのみひらかれる架橋の可能性に賭けることであるほかない。

わたしたちもまたいつか流星となってながれる。なにもかも忘れ、だれからも忘れられて。永遠に交わることのない平行線をえがいてながれる流星群のひとつとなって、冷却を生きのびると同時にほろびる――付け加えるならば、たんなる挿話のひとつとして。

(2018年8月9日)

井上瑞貴『星々の冷却』

書籍情報
星々の冷却
出版社 書肆侃侃房
発行 2015年
著者 井上瑞貴(いのうえ みずき)
価格 2000円+税

 

勝嶋啓太『カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です』

最後の日から半年経つけど
ぼくたちはまだここにいて
日々は穏やかに発狂し
時々は優しく腐敗して
鳩に餌をやっている小柄な老婆を
黒い大きなカラスがついばんでいるのを
日がな一日眺めている

希望の日々

昨日取り上げた奥主の詩集に引き続き、わたしたちはふたたび希望についての詩を読んでいる。だが勝嶋の書く希望もまた無限遠点にあるものであり、けして手元にあり自らを安心させてくれるようなものではなく、体温を感じさせるような灯火でもない。その光はしずかに冷えていて、ぎらぎらと夜を照らす真夜中の不可能な太陽といえる。「だけどもうすぐ来るだろう/きっと何かが来るだろう」という終わりの二行は、最後の日から何日経過してもけしてやってこない希望のかわりに訪れる不吉ななにかを予感させる。

『カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です』は、勝嶋啓太の第一詩集。著者は一九七〇年生まれ、わたしより五歳年上で、所属は潮流詩派の会(なじみのない読者のために補足すると、詩派というのは詩人がそれぞれ参加するグループで、結社から同好会まで様々な規模と種類があり、全国に多数存在する。潮流詩派の会は一九五五年設立「詩の社会性、批評性、現実性、記録性、風刺性を重視」することを掲げる会)。

この《千日詩路》の前身となったウェブサイト(「仮象の帝国」「千日詩行」)を読んでいた読者にむけて書くと、勝嶋は『今夜はいつもより星が多いみたいだ』を二〇一七年に発行した詩人である。著者によれば、本第一詩集に収められた五十六編は、おもにゼロ年代の十年にわたって書かれたもので、著者勝嶋の三十代とほぼ呼応している。端的にいえば、バブル崩壊後の日本の「失われた二十年」のただ中に書かれたものだ。

こうした時代背景を念頭に置かないじゅんすいな読みもあると思うが、《千日詩路》ではそのようなアプローチを採用しない。なぜならどのような詩集も時代という巨大な潮流の中におり、たとえ著者がどれほど自らの作品の自立性を声高に主張しようとも、時代性から自由であるものなど、存在しないと考えるからだ。

ふたたび詩集に戻ろう。

 

駅前にある掲示板に貼ってある
スズキタカシという
行方不明者のポスターの顔写真が
どうも自分に
似てきたような気がしてならない
三週間前に見た時はそれほど似ていなかった
三か月前に見た時はまったく似ていなかった
しかし
三日前に見たらかなり似てきていた

わたしたちの生活には様々な不気味なるものがあるが、普段はそれを意識しないように生きている。鏡をじっとみつめるとそこには他人がいる。たとえばゼロ年代に青春を過ごした者にとって、不気味さとは、同じ世代のたくさんの苦しみについて見てみぬふりをすることであり、日々起きている同世代による自殺、行方不明、そして暴力を振るう側つまり犯罪者として報じられるニュース、その彼らの年齢と自分とのあきらかな類似性を見なかったことにすることでもある。わたしたちの隣にはいつでもスズキタカシがいる。

似てゆくということは、知ってゆくということ。そしてそれは自らの顔を映す仮象の鏡を手に入れることである。それはいかなるものだろうか?

 

四丁目のカドで見た空が
まるでウソのようだった
まるでウソのように青く
まるでウソのような雲が
まるでウソのようにポッカリと浮いていて
まるでウソのような鳥が一羽
まるでウソのように飛んでいって
まるでウソのような太陽は
まるでウソのように耀いていた

ウソのような青空

だれもかれもがウソつきだ、とは若者の弁である。「大人」であるわたしたちはその若者をわらう。「大人」であるわたしたちは、彼らの幼さをわらう。自由民主党はウソをつき、立憲民主党もウソをつき、メディアはウソをつき、ソーシャルメディアでは作家ですらウソを書く。だがときにウソはとてもうつくしいことがあり、あまつさえ、ひとを救ってしまうことすらある。その背理にとどまることが生きるということであり、若者につたえるべきことは「大人」になるとはウソをつくことではなく、ウソとなるほかないわたしたちの姿を受けいれることだということである。かつて若者だったわたしもウソに救われたことがある、そういうことをこの詩は思い出させる。

 

おじいちゃんは
とても悲しそうな顔で ただ 黙々と
〈そいつ〉を釣っていた
でも〈そいつ〉ときたら
なまっ白くて ぐにゃぐにゃしてて
ぬるぬるしてて ぶよぶよしてて
目もないし 耳もないし 鼻もないし

手も 足も 尻尾もないし
ただ 口だけが ぽっかり あいていて
だけど おじいちゃんは 〈そいつ〉を
何十匹も 何百匹も 何千匹も
ただ 黙々と 釣っていた
悲しそうな顔で 釣っていた

釣りの日の思い出

だが嘘をつくこともできないこともある。死者について嘘を書くことは冒涜ではないか。死者がなにに苦しんだか、なにに悩んだか、なにを乗り越えようとしたのか、それらについて嘘を書くことは許されるのか、そうした問いがある。喪失について考えるとき、あるいは罪の意識について考えるとき、この国の衰退と同時にあらわれはじめたいわゆる特殊な保守たちの存在を想起せざるをえない。それはこの書評を書いているいまが終戦の八月十五日に近いせいでもあり、また勝嶋の詩になみなみならぬ切迫感と痛みが感じられるからでもある。「そいつ」とはなんなのか。なぜ「そいつ」は釣りあげられるのか。そしてもっとも重要なことは、なぜ悲しそうな顔だったのか、そして書き手がなぜそれを憶えていたのか。いや、憶えていなければならない、と思うこと。それがおそらく必要なのだということを思う。

 

少女は 僕の腕を必死に掴んで
鶴を折ってください
鶴を折ってください
と言って 泣くから
ごめん
本当に知らないんだ
と言って
僕は
少女を突き飛ばして
一目散に 走って 逃げた

鶴を折ってください

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩である。
わたしは上の連で憶えていることがおそらく必要だ、と書いた。だが一人の個人としては、忘れるということ、罪の意識をも忘れるということ、自分の人生に起こった苦しい出来事を忘却するということ、それもまた大切な、人間の営為のひとつなのではないか、それは許されてもいいのではないか、ということも同時に思う。

上の詩では、書き手が鶴を折らないのは、ほんとうに鶴の折り方を知らないのか、それとも単に知らないふりをしているのかは明示されていない。だがおそらく後者であることが詩の連から考えられる。わたしたちの人生には、この詩のような少女の記憶がひとつかふたつはある。傷つけただけではなく、助けを求めてきたのに拒否したこともあるだろう。

冒頭の「三丁目の来々軒で/ひどくまずいワンタンメンを食べた帰り/四丁目の角で/鶴を折ってください/と声をかけられた/振り返ると/真っ白な服を着た/五歳ぐらいの少女が/真っ赤な紙を一枚/僕の方に/哀しいぐらい真っ直ぐに/指し出していたので」を読むと、真っ白な服、そして真っ赤な紙が示唆している存在、とくに日本人にとってなんなのかついて考えさせられる。忘れるということ、そして背負うということ、そのふたつの間のいずれを選ぶか、答は出ない。少なくとも勝嶋は忘れようとはしていないことに、どこか勇気づけられる。詩は、ただ記録する。

平成という時代は終わりかけている。
共同体は崩壊し、成長神話は霧散し、グローバリゼーションによって世界は果てしなく狭くなり、連帯をもたらすはずだったインターネットはわたしたちを引き裂き、男女は毎日匿名の陰口でいがみ合うようになり、それぞれの場で孤立化が進んでいる。携帯端末の普及によって、ありていにいえばそのインターフェイスの小ささによって、《この世界》と《このわたし》についての読みは断片化し、時系列を失いつつある。わたしたちはばらばらになっている。

そうした時代の中、《千日詩路》は、頬を上気させ大きな声で理念を世間に訴えるのではなく、ただただ粛々と、毎日の書評を通じて詩を――いや、こころを動かし、このばらばらになった世界を架橋せしめることができる、そうしたテキストを書き続ける、作家と詩人・・・・・を応援する。

勝嶋啓太『カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です』書籍情報
カツシマの《シマ》はやまへんにとりの《嶋》です
出版社 潮流出版社
発行 2012年
著者 勝嶋啓太(かつしま けいた)
価格 2000円+税

奥主榮『日本はいま戦争をしている』

ひとの自然状態ステート・オブ・ネイチャーとはなにか。ふだんわたしたちが目にする報道やソーシャルメディアを経由してつたわってくる事件の数々を思い出す時、それはお互いがお互いに暴力を行使しあう状態である、と書いてみたくなる。だがもちろん、たいていの場合、ひとは平穏な市民生活を営むものであり、そこに流血や暴力が生じることはまれである。暴力と非暴力のどちらをひとの本性とするか、それは世界のかたちを自ら選択することだ、と書いてみる。

あとから思うほど
辛いことばかりでもなかった
ラジオから流れる戦果に歓声をあげ
世界地図に日の丸をたて
いさましさを謳歌さえした

戦況も世界もその実際はどこか遠く
まるで絵空事
滅私奉公の快さに全てを麻痺させ
重箱の隅をつつきあいながら
どれだけの不自由をがまんできるかを競い
これみよがしの誠実さを語り

そうしたことのことごとくが
悪意のない善良さを装い
手首から二の腕へとまとわりつき
ゆったりと自分たちの心を締めつけていき
「立派に死んでください」などと
子どもたちが真顔で口にし
耐えることが生きがいとなり

レクヰエム

『日本はいま戦争をしている』が発行されたのは二〇〇九年。著者は一九五九年東京生まれ。この詩集について多少の解説をすると、これはゼロ年代の日本にいる書き手のものであるが、そこに太平洋戦争のまっただ中の日本にいる書き手が重ね合わされている。この詩集の《戦争》は想像力によってかくとくされたものだ。別の言い方でいうと、太平洋戦争の最中の日本を想像力によってよみがえらせようとする試みだ。いや、より正確にいうならば、この詩集に収められた二十一編に通底するものは、いつの間にかよみがえっていたものについての驚きである。

 

燃えさかる炎の中に投げ入れられる本の群れ
一文字ひともじに願いをこめ織り上げられた物語が
夜空にたちのぼる煙と貸していくさまを
その目で確かめながらエーリヒ・ケストナーは
けして希望を失いはしなかった

つみあげられた

エーリヒ・ケストナーはナチス政権下で著作が焚書にあった作家だが、こうした状況が現在のわたしたちと遠くないように感じられるのは、本を焼くだけが世論を操作マニピュレートする方法ではないからだ。ひとを知らずと操作する方法はいくらでもある。わたしたちは嫌というほどそれを知っている。ひとの気持ちをマニピュレートすることに特化したソーシャルメディアを使えば(そして使わないという選択肢は事実上ない)ひとははてしなく、いくらでも容易に扇動されてしまう。自分とはまったく無関係ないかりやかなしみを、まるで自分のものであるかのように感じてしまうことを、たとえばツイッターをやっていればだれしもが経験しているだろう。

この詩は、単に作家の不屈の精神を礼賛しているのではない。それがいつでも起こりることであり、まさにいまわたしたちの国でも同じことが起きており、あらがうということは現在進行形の課題であるということだ。《いまここ》で戦うことが求められている。だが、わたしたちに、ケストナーが持っていたような希望はあるだろうか。

 

誰にも話すことも出来ないでいるのですが
目を
つぶしたいのです
とんでもないことだとは
思うのですが
内心
御国の役になど
たちたくないと思っているのです
のうのうと生きて
たらふく食い
いいことをして

それ以外のことは
いっさいごめんです

「実は」

徴兵されそうになった若者が、じつは国の役になどたちたくない、と胸の内を吐露する形式で語られる詩「実は」を読みながら、様々な事柄がわたしの頭を去来する。

この国の屋台骨が傾き始めてから、二〇年以上が経過している。技術大国という幻影を粉々に打ち砕いた東日本大震災が二〇一一年に発生し、様々な社会問題の激痛を緩和するモルヒネとしての東京オリンピックが数年後に控えている。表層上は安定した社会の裏側で、表に出ることも、声を上げることも許されないまま、塗炭の苦しみにあえぐ人々がたくさんおり、そのいずれもが孤立している。インターネットでは社会的な弱者が告げ口、暴露、耳目を集めやすい悪口雑言によってかりそめの連帯を行うことが常態化しており、それはある程度成功している。だがひとは絶望によって長期的な連帯をすることはできない。ひとを真につなぐもの……それを希望と書きたいところだが、それこそがもはや《戦争》であるほかないのかもしれない。「それ以外のことは/いっさいごめんです」とつぶやきながら。

 

おかあさま
僕は昨日 柊の壁のそばまで行ってまいりました
先の面会日にお話した
あの広い療養所のそばの生け垣まで
近寄ってはならぬと言いつけられていたことは
けして忘れてはおりません
でも土地の子たちに
都会っ子は意気地なしだと
空襲がおそろしくて逃げてきたなどと
言わせておくのはシャクなので
僕たちにも度胸があるのだということを
見せつけてやりたかったのです

柊の壁

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。「柊の壁」とは、ハンセン病患者が入院していた国立療養所多磨全生園の敷地を、外部と隔離するためにつくられていた壁のことだ。語り手の「僕」は、母親に行くことを禁じられた療養所まで、「度胸がある」ことをまわりに示すために忍び込み、そこで見かけた少女の姿について母親に説明する。すると母親は息子を叱責し、あそこの人間は「不具者は不忠者」で汚らわしいから近寄るなという。その後起こった現実の事件(自民党議員の「生産性」暴言や相模原事件)を想起させるくだりだ。

少年は母親をなだめるため、次のように答える。

わかりました おかあさま
やまいとなることが不忠なこころのあらわれ
この非常時に
天子様のお役に立たぬ身体を持っていることなど
許しがたい不名誉です
年端がゆかぬいたいけな子であるほどに
不届きな血筋をあらわしています
けれど おかさま
ああしたものどものがいることを知ったればこそ
僕は心に刻みます
不忠さ故に無念に生きながらえる
おかっぱの子の哀しげなまなざしを
そうして  それらのすべてを負い
僕自身は自らの肉体を強くすこやかに鍛え上げ
見事股肱の御楯となり
東洋平和の礎として果てたいのであります

(同上)

「強くすこやかに鍛え上げ」られた肉体を称揚すれば、そうではない病人、不具者、障害者などが切り捨てられる場におのずから加担することになる。それは「生産性のない」ものを切り捨てようとする姿勢とまったく同じものだ。ひとのうちには、ひとつの強さではなく、さまざまな種類の強さ、いまだかたちをとっていない可能性としての強さがある。それらを見ようとすること、それがひとと向き合うということだ。一方、「僕」は、母親をなだめるため、おそらくこころにもない嘘をついたのだろうと思われるが、その彼がたどり着いたことばが「股肱の御楯/東洋平和の礎」だということ、そのあまりのグロテスクさに、身体がふるえるほど戦慄する。作家の書くべきものはこれだ、という書き手の自信にみなぎる二行だ。

 

最後に、題名にもなった詩を紹介したい。

二〇一八年、無料でひらかれたウェブに、マニピュレーターたちが毎日息をするように嘘を拡散させている。一方、詩はその作品において嘘を書け/かない。少なくとも、奥主は嘘を書くことなく、希望のない場所に希望があるなどという絵空事を述べたてることもない。

ただ、奥主はこういっているように感じる。だれかがこの国の《ほんとうのこと》を書かねばならない。わたしたちにはまだできることがある、と。

日本はいま戦争をしている
けしてことばにはされることがないまま
いつの間にか戦争をしているのだけれど
それを誰も戦争と呼ばない
そう呼ばないことで誰もが
戦争をしているのだという事実から
目をそらすことができ
つみの意識からは逃れ
日本はまだ戦争をしていないのだと
そう思いこもうとする

日本はいつのまにか戦争をしていた

日本はいま戦争をしている

(2018年8月7日)

奥主榮『日本はいま戦争をしている』

書籍情報
日本はいま戦争をしている
出版社 土曜美術社出版販売
発行 2009年
著者 奥主榮 (おくぬし えい)
価格 1800円+税

 

みやうちふみこ『カバの本籍』

わたしたちはわたしたちの人生を生きている。だがその人生はほんとうに自分のものだろうか。わたしたちはこの肉と骨以外に、自分のものであると断定することができる、何かをもちえているのだろうか? そう考えたとき、生きるということについての自明性がふっと揺らぐことがある。だがたいていの場合、その一瞬はすぐに忘れられる。

その日は あなたがわたしの兄を殺した日です
その日になると わたしにはうねるようなサイレンの音が聞こえてきます
「さようなら〜」のあいさつのように 「ただいま〜」のあいさつのように
「みなさんお元気ですか?」のように

あの日がくると目に浮かぶものは何年すぎても同じです
あの庭の片隅に赤い椿が咲いていて母もいて
梅のつぼみもふくらんで泡だったビールも……

あなた

『カバの本籍』は七十代の著者の第一詩集。
書くことは、ひとを変える。読者がよく知っているように、ソーシャルネットワークへの書き込みであっても、匿名での書き込みであっても、むろん、詩集であっても、書くという行為は書き手を変えてしまう。自らの手が勝手に書いたものを見ることによって、自分が何か別のおぞましい怪物に変容したかのように感じられる瞬間があり、そういう体験についてのじゅんすいな驚きがある。それは「この自分」と「書かれたもの」との間の不気味な乖離だ。みやうちは、その一瞬を書くことを通じて発見した、と感じられる。別の言い方をすれば、みやうちは、その発見の過程そのものを詩集にした。

 

昼間のしんとした時間

階段を上る足音しんと一つドアの閉まる音しんと一つ
しんと 窓を開けるとたばこの匂いかすかに一つ

たくさんの人が しんと暮らす空間

しんとした世界に寂しさは吸い込まれ
たくさんの人といるしんとしたにぎやかな空間
わたしは好き

水音がする かすかに

ドアをしんと開いて階段をしんと下りる
緑の風をいっぱいに吸い込む
足下に 白い野バラが咲いていました

「新しい住まい」

好きなものについてかたる日常的なことばがある。だがそこに不意に水音があらわれる。それは不吉なもので、当たり前のようにそこにある日常をゆがめる呼び水だ。こうした異界への入口のような欠落が、みやうちの詩作品のあちこちに露出している。その読後感は、ふと目をやった地面の上で、ある生き物が別の生き物に捕食されているところを見てしまった感覚に似ている。

見るべきではないもの。知るべきではないもの。理解してはならないもの。わたしたちの生活はそのようなものに囲まれている。ある瞬間、そうしたものに囲まれ、いや、自分もまさにその一部であることに気が付いてしまう。その瞬間こそが書くべきものなのではないか、そういう声がきこえる。

 

どこでもいいはずなのに
どこでもいいそこにはもう
一滴の水もないこと
愛しかないのだとある日
大人になったカバは
はっきり悟ったのだった

父さん母さん兄さんカバのいる広い青い宙にも番地があるのだろうか?
草も木も水も花もチョウも鳥も雨も風も虹もカタツムリだって自由なのに。

「もうふるさとにはもどれませんよ」動物園戸籍係のゾウさんは
わたしのつぶらなひとみに念をおすようにそう言って書類を受理してくれた。

ふるさとなんかはじめからなかったんだ

カバの本籍

詩集を読み終えて、夏の夜の公園に足を運ぶ。木々のあちこちですべての生き物たちがお互いをむさぼりあっている。《このわたし》は、それと違う存在なのだろうか、そういう問いがある。それは超越的な第三者に、檻の中で飼育されている、動物園のカバを連想させる。生きるということのありのままの姿をとらえることははてしなく困難であり、その生はたいていの場合、だれかの犠牲の上になりたっている。いや、なりたたざるをえない。知るとは、見ること。そしてそれを想像力によってのみかくとくすること。それが書くことのふるさとなのではないか。みやうちの詩集は、そうしたことをわたしに考えさせる。

「一滴の水もないこと/愛しかないのだとある日/大人になったカバは/はっきり悟ったのだった」

詩は、その愛すらもはじめからうつろなのだということにかたちを与える。わたしがこの詩集でもっとも好きな詩だ。ふるさとなど、どこにもないのだ。

(2018年8月6日)

みやうちふみこ『カバの本籍』

書籍情報
カバの本籍
出版 モノクローム・プロジェクト
発売 らんか社
発行 2018年
著者 みやうちふみこ
価格 1200円+税

鹿又夏実『リフレイン』

桜の花びらが降る
東京のはずれ
川沿いの巨大な団地の一室で
ひとりの老人が生まれた

老人は
死ぬまでの短いときを
遊歩道を歩いたり
流れる花筏を見つめて過ごす
金は役所から支給されるので
生活には困らないようだ

老人

生まれる前から老いているものがある。老いたまま生まれるものとは、死ぬために生まれるものと同義なのだろうか? 街に出れば、猛暑に灼かれる盛夏の路上にたくさんの虫たちの死骸が敷き詰められ、そこを笑顔で歩いてゆく園児たちの靴によって踏み潰され、粉々になり、土に還り、他の生き物たちのあらたな糧となる風景をみることができる。そこにあるのは幸福な円環的輪廻の姿だ。

だが、鹿又の詩的世界は、そうした救済が与えられる場ではない。生者が老人のまま、あるいは不具のまま産み落とされる、逆向きの人間たちが沈黙のまま住まう場だ。

困らないことに
困ることはないのか
誰も知らない
誰も気にも留めず
質問もしないため
老人は生まれてこのかた
存在の理由さえ世に問えないでいる

同上

「生活には困らない」人生や「役所から支給される」生活がどのようなものであるか、二〇一八年に生きるわたしたちは知っている、というより、いやおうなしに知らざるを得ない。だれも知りたくなかった物語が、電磁的なネットワークを経由し、あらゆる場所に露出しているからである。毎日拡散されるたくさんの《わたし》の物語の過剰な氾濫の結果、わたしたちは昔よりもずっと他者の生活に無関心になった。そうした現実を想起する時、それぞれに隔離された小部屋の集合体である団地の一室にて老人が誕生する国を幻視する鹿又の視線に、つよい説得力を感じる。

私を打ち
罵声をあびせ
追いたてるものから逃げだし
私は自分の影に逃げこみました
苦しいのか楽なのかも分からず
湿った影の底で静かに死んでいくようです
そこから出なさいと言われても
自己よりも肥大化した私は
影から抜けられないので
しかたなく自分の肉を切りきざみます
私の肉片にはさびしさにも似た
骨のような言葉が詰まっていますが
見て見ぬふりをし肉を咀嚼し続けました

ニートのうた

著者、鹿又夏実は一九八三年生まれ、『リフレイン』はその第一詩集だ。わたしはこの詩「ニートのうた」を、これが最初に収録された文芸詩誌『オオカミ』(32号、2018年2月発行)にて読み、彼女のことを知った。肉体的暴力や罵声にあふれる残酷な世界は、そのままわたしたちが生きるこの社会の写し絵であり、ある共感を覚えたことを記憶している。作品中の「自己よりも肥大化した私」は、暴力的な世界からの逃避先である「影」から抜け出ることができない。そこから抜けるためには、自分自身の一部を切り捨てるしかない。だが、世間から捨てるように強いられているものこそが、自分を救ってくれるはずだ、という詩人の確信がそこにある。

(たちあがるための言葉も血肉も私の胃の中なのに)

(吐いても吐いても言葉は喉につき刺さり
私に復讐を誓っている)

同上

つまり、自分を救ってくれるものは同時にまた猛毒でもある。鹿又にとって詩は毒なのだ。いいかえれば、見ることは苦痛ではあるが、その苦痛こそが《ほんとうのこと》に接近するための唯一の鍵なのだ。ひとはわざわざ苦しむ目的で見るのではない。自分を苦しめるものと戦うために見ようとすること、そこに書き手のひそかにもえあがる意思がある。

例えば、貧困は、社会的格差は、不平等は、ひとから考える力を奪う。だが、だれもひとから詩を奪うことはできない。だれもひとから戦う意思を奪うことはできない。そういうことを鹿又はわたしに考えさせる。

血と精液は

男の意思とは関係なく
世界を満たそうとしてきた
この世が穴だらけだったために
だが今
男の足もとで
穴の底からせりあがってくるのは
世界の一部なのだ

(穴のなかこそ世界なのだから
お前が心配することもなかったのに)

或る日

詩は《世界》と戦う。あるいは、自分を取り巻く宿命とよぶほかない外的なる諸要因と戦う。それは家族であったり、学校であったり、勤務先であったり、伴侶であったりする。いや、詩だけではなくだれもが戦いを強いられている。だれもが勝手にこの世界を満たそうとする「血と精液」にあらがっている。わたしたちを苦しめているもの、わたしたちを非人間にするもの、この奇怪なる《世界》とあらがっている。「或る日」はけして詩人だけの一日ではない。わたしたちそれぞれの日々における、グロテスクな穴だらけの世界に訪れるものなのである。

わたしが
冷蔵庫にあかりを灯すと
死神がそろりそろりと歩いてくる
少年を連れ少女を連れ
幼いわたしを連れて

少年は冷蔵庫の中で育った
細い手足は薄汚れ
ほの白い光に曝されている
その冷たい子宮は少女の腹にある
少年が大人になることを拒みあばれるたびに
少女は血を流し泣き叫ぶが
父も母も遠い場所で笑っているだけ
絶望した彼女は地上を這いずりまわり
ようやく
少年と新しい冷蔵庫を見つけて暮らし始めた

わたしがこの詩集でもっとも好きな詩。
自分とまったく無関係な他人として人生を歩んできたとある作家の描く光景が、ふいに自分の人生のある日と重なってしまうことがある。それは祖母が死んだ後に冷蔵庫に残されていた作り置きの料理であり、あるいは子供とかつて一緒に集めた雪が入った冷凍庫の小さな容器であり、これらをふと見つけた時の自分の気持ちが、作品によってよみがえる。

(言葉にしなければならない)

氷点下で保存されていた悲鳴は
異常気象によって
街に溶けだし広がっていく
羊水のような悲鳴の底で
幼いわたしが水面を見つめている

(ひらくためには)

同上

開くべきではない扉を開ければ、わたしたちはうしなう。
扉を開くたびに、わたしたちは損なう。だが開かずにはいられない。鹿又の誓いにも似た「言葉にしなければならない」という行を、わたしたちもつぶやかざるをえない。

ひらくために、詩は書かれるのだ。

(2018年8月3日)

鹿又夏実『リフレイン』書籍情報
リフレイン
出版 モノクローム・プロジェクト
発売 らんか社
発行 2018年
著者 鹿又夏実(かのまた なつみ)
価格 1200円+税

舟橋空兎『羊水の中のコスモロジー』

生きるということは
自動詞ではなくて
他動詞なのだと審判されてから
眼に触れるものすべてが
怖ろしくなった
微風のための微風は嘘で
生きるための労働は詐欺だ
微笑みの裏には企みがあって
そのまた裏側には掘り返せない〈現実〉がある

死と生の亜脱臼

わたしたちは日々を自動的に生きている。あるいは他動的に生かされている。その考え方の末尾に「かのように思える」と、ふと疑問符のようにつけくわえてみる。たとえば、新しい生命の誕生には、母体の中で超音波によって撮影された豆粒のような肉片が、いつの間にか巨大な赤子となってこの世に創出される不気味さが伴う。そうした奇怪な現実を前にして、生きることは自動詞なのか、はたまた他動詞なのか、その判別はきわめてむずかしいと言わざるをえない。その答のない曖昧な場にとどまり《続ける》こと。いいかえれば掘り返せないものを掘り返せぬままにしておくこと。舟橋の詩集は、その不能性について考えることからはじめているように思える。

『羊水の中のコスモロジー』は著者の第四詩集。三部構成になっていて、一部は「クリスパー・キャスナイン」、二部は「アルケーからテロスへ」、三部は「スーパーノヴァ」と名付けられ、それぞれに九から十の詩編が収録されている(著者は「詩篇」と記載)。一般的な現代日本語を用いた作品群のうち、一部に万葉集や源氏物語からの引用を含む古文調の詩が含まれる。そのうちでは「戻り喩に極み言」が印象にのこる。

戻り喩に漬けたれば、極み言までも打鍵からくりキーボードにては打てまじ。煎じ詰めの書き倒しするほどに、遍く下氷のはつ夏でありなむ。気を縦にたしだしに軟柔すれば、やり場なき怒り苔さえもなにほどのものか。さりとて埃眼には耀きなき目褄を絡ませ、焼き太刀の苛なき甘ゆさを二重に掲げ持ち、行けるところまで塗炭の苦しみ、なお練りの擦れ事となりおほせるもよし。

戻り喩に極み事

ルビは原文ママである。他にも「遇愚流地球グーグルアース」や「世界網インターネット」などの単語が擬古文に挿入される。様々な解釈がありうるが、わたしはこの様式は、ひとの生きる有り様を根本的に変容しようとする近代テクノロジーの網の目にとらわれて貧しくなることばをいかに活かすかさぐるための試みであると読んだ。

一生を水として生き
水として死ぬのはたやすいか
真ん中をえぐり抜かれた
からっぽの大脳皮質で
どんな情報を食べても
考えることから遠ざけられ
精神の暴動をしむけられている
一期一会というのは
嘘だ
逃げても逃げても
追いかけてくるものが本物なのだ
そう記されている聖なる書物には
著者名がない
シンタックスに適った活字もない
宛先も宛名もない
それは長すぎる規格外の手紙にすぎない

水として生きる

さぐるためには考えねばならない。だが考えるとはどういうことか。ひとが真に生きるとはどういうことか。わたしたちは日々呼吸をし、食事をし、性交し、睡眠し、生きている(かのように思える)。だがそこにはほんらいあったはずの、どこかずれた人生からの乖離があり、切断があり、「遠ざけられ」た距離がある。わたしたちは、脳味噌の真ん中にうがたれたうつほがもたらす痛苦から逃れることはできない。わたしたちが遠ざけられているもの、それはわたしたち自身だ。そして逃げ場がないだけではなく、啓示をもたらすはずの言語はこわれているのである。

一方、逃れられる、とみなに信じ込ませるための甘美なる麻薬が、今日も明日も明後日も日本語の中に無限に拡散される。「どんな情報」でも食べられるかのように思える世界に、すでに二〇一八年のわたしたちは生かされている。そのようなグロテスクな場において、だれも水のようには生きられない。そこには奪われ、損ねられ、傷つけられたことばしかなく、だれも考えることもできないのだ。できること、それはその不能なる自らの姿を見ることでしかない。一期一会こそ夢まぼろしであり、だれとも出会うことができないのに、だれとでも繋がることができるかのように思える《いまここプレゼンス》のおそるべき虚構性を見ることだ。

地図の上の見知らぬ地名みたいな
よそよそしい朝が来て
自分がだれか想い出せない
わたしの隣で眠る
あなたがだれかも

いつまでたっても乾かない
汚れた下着を捨ててしまったら
新しい下着はどこか他人行儀
公園の砂場には子猫の
死骸が埋められていて いつまでも
掘りかえされるのを待っている

花びらが無性に食べたくなる

詩は乖離そのものに、不可能な距離にかたちをあたえる。だがそれはプライベートな記憶に基づく《このわたし》の乖離ではない。日本語を解するすべての読者のそれぞれの分断された生活の場に、思い出すことのできなくなった朝があるはずである。あるいは、名前を忘れた誰かの体温が、埋められたまま弔いを待つひそかな體がある。

ひとは別れ、ひとは分断され、ひとは忘れ、かつて知っていただれかは「見知らぬ地名」となって去ってゆく。

わたしたちは知っている。この世のいかなる嘘も、いかなる劇的なレトリックも、《ほんとうのこと》、この世界の有り様コスモロジーを少しもあきらかにしないのだということを。それを可能にするものは何か。わたしたちはわたしたちを取り戻せるのか。詩はこれらの切実な問いにこたえられるだろうか。主体性を奪われ、現代という羊水の中で溶解する秩序のないことばにとらわれながら、そんなことが可能だろうか?

詩を書くのではなく
詩が書くのだ

詩とコスモロジー

(2018年8月2日)

舟橋空兎『羊水の中のコスモロジー』

書籍情報
羊水の中のコスモロジー
出版 モノクローム・プロジェクト
発売 らんか社
発行 2017年
著者 舟橋空兎(ふなはし くうと)
価格 1600円+税