十田撓子『銘度利加』(H氏賞受賞詩集)

——わすれ、思いだす。そしてまた、わすれる。

◇ ◇ ◇

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川上未映子『水瓶』

――戦争、傷、そしてえいえんに見つからない喉の石。
――(そのようなものは存在しません)。

◇ ◇ ◇

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大崎清夏『指差すことができない』

わからないことをわからずにいる。

◇ ◇ ◇

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麻生有里『ちょうどいい猫』

※本稿は根本正午の個人ブログ「仮象の帝国」を初出とし、再掲にあたって大幅に加筆修正を加えた

はてしなくかくさんする《わたし》という不可能な夢をみている。

◇ ◇ ◇

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【番外編】葉山美玖『籠の鳥』

ひらかれるてのひらに、イエがもえてくずれてゆくよ。

◇ ◇ ◇

本日は金曜日。三連休前の最終日。冬の気配が日々近づいている。

さて、本日は以前書評でも取り上げた葉山美玖(#0010)の小説『籠の鳥』を番外編として取り上げる(一週間に一度程度、詩以外のものを取り上げてみたい)。本書は二〇一二年刊行なので、最近の彼女の詩作の勢いを思い出す時、少し古いものだという印象がある。本書は著者より頂いたもので、一七六頁。文字数から想像するに、おそらく原稿用紙にして三百枚をゆうに超える長編だと思われる。

さて本書は、詩ではなく小説である。自伝的小説、と評したらよいだろうか。もちろん小説に書かれていることがほんとうである必要などなく、そのように読む必要もないが、書き手が自らの人生の諸要素を題材にして書くときののっぴきならない切迫感がある。詩と違い、小説には登場人物があり、プロットがあり、ストーリーがある。それぞれを見てみよう。

公式な書籍内容紹介は次のようなものである。

嵯峨亜美は、19歳の時の失恋と、その際の家族こころない対応が原因で心身を病み、精神科病院への入院を経て、十数年にわたる長い引きこもり生活を送ることになる。そんな亜美が、ヤクザを親に持つアルコール依存症のまさき、ケースワーカーの木崎、そして臨床心理士志望の瑛一との不器用な恋愛を通して、徐々に大人になってゆく様を、繊細な筆致で描く。

冒頭を引用してみよう。

亜美は目を覚ました。
少し汗の匂いのする、何日も取り替えられていないシーツ。ふかふかの枕。何年の前に買った紺と青のベッドカバー。薄い染みのついた白い木のベッド。
部屋は、年代物だがそれなりに値の張った家具できちんと埋められている。大きめのブラウンの書斎机、お揃いのガラス窓のついたこげ茶色の本棚、同じく茶色の大ぶりの木製のライトスタンド。
窓からは、隣の柿の木がよく見える。ここ十二年間繰り返し繰り返し見てきた朝の風景だ。
亜美は背を伸ばすと瞬きをした。……今日の母親の作り置きの食事はなんだろうか。昨日の夜は自分は風呂に入っただろうか。確か、入ったはずだ。それから着替えをしただろうか。
広い作り付けのクローゼットには高価な外出着がたくさん詰まっているが、着替えといっても、亜美は四色のフリースしか普段着は持っていない。それらは三年前、渋る父親がデスクトップのPCを買ってくれてから、ネットでこっそり買うことを覚えたものだ。ユニクロの水色とピンクとアイボリーと黒のフリース。
それを母親に洗濯してもらって、毎日別の色に着替えるのが亜美の唯一の「お洒落」だった。
少し毛羽立ったアイボリーのフリースを、頭から被り階下に降りると、母親の甘ったるいそれでいてどことなく毒を含んだ声がした。
「亜美ちゃん、今日はクリニックの日よ。お父さんがタクシーを呼ぶわ。お急ぎなさい」
(ああ、またお金がかかる。体も心も弱いこの子のためにお金がかかる。私の贅沢着がもっと欲しいのに。私の老後だってどうなるの。この子のために、この子のために、早く、さっさと電車にでも飛び込んでくれないかしら)
亜美は、黙って焦げたトーストと苺ジャムを、ティーバッグで入れた紅茶でのどに押し込んだ。

「籠の鳥」(P4 – P5)

物語はこの亜美と、その周辺の人間との関係を中心に進んでゆく。冒頭には、主人公亜美の引きこもりの生活の様子、引きこもりとなってからの十二年という時間、そしてその理由の一端と思われる両親との関係性のすべてが凝縮されている。

この物語のはじまりを一読し、さまざまなことがわたしの頭を去来する。おそらく読者も思うのではないか。「ああ、わたしはこの風景を知っている」と思うのではないか。

それは葉山の表現が類型的だからではない。わたしたちの社会にあるなんらかの構造・・・・・・・によって、わたしたちのそれぞれの家庭に、亜美の家に見られるような類型的な問題があることをわたしたちは日本語・・・を通してよく知っているからだ。

二〇一八年、ライトノベルやアニメーションなどの大衆作品のうち、数多くの主人公たちが元引きこもりの経歴を持っている。わたしがよく見る動画配信サービス Netflix でも、何本もそうした原作に基づくアニメーション作品が人気作として掲げられている。それらに共通しているのは、かれらが「この現実」では生きていけないという生きづらさをかかえていること、そしてそれを克服するために自殺とおもわれる契機を通じて、「別の現実」への転生を果たし、なんらかの救済を得ていく物語であるということである。

読み物としての大衆商業作品では転生は可能だ。だがわたしたち生活者に転生などゆるされないし、そのようなものはない。それは読み物と普通は呼ばれる虚構の中でだけ成立するものだ。そうしたものを読むこともまた愉しいものだということをわたしたちは知っている一方、一部の詩や小説は、そうした虚構によってはあらわすことができないものを書こうとする。嘘をもちいてしか書くことができないほんとうのことを書こうとする、といってもいいかもしれない。葉山の小説は、そのような作品であると読める。それはいわば、転生をせずに転生をもとめる物語なのだ。

『籠の鳥』のストーリーはシンプルなもので、イエという仮象の牢獄(それは日本社会のあちこちに見られる学校、会社、それぞれの閉鎖的な村社会の縮図であるという示唆がある)に閉じ込められた主人公が、そこから出ようと決意し、それに成功するまでのこころの動きを描いたものだ。

舞台としては主人公の自宅に加えて、心療内科の病室、「メンタルヘルス」の掲示板やチャットルーム、精神科デイケア、家庭に問題をかかえた者たちがあつまるカウンセリング、教会などがあり、主に三人の男性との関係を中心に物語は進んでゆく。より具体的にはインターネットを通して知り合ったアルコール依存症の男性まさき、デイケアの職員の木崎、それから時計屋に勤める青年北条らである。

最初のふたりとは、親しくなる前に、父親や母親が介入してきてその関係は破綻してしまう。まさきとの破綻のきっかけとなった下りを引用してみよう。

母親の部屋は散らかり放題だった。しかし、今日は構ってはいられない」
「あのね、お母さん」
「気持ち悪いわね。何?」
「あのね。……私、やくざの人を好きになったの」
「あら、そう。じゃ、その人の部屋にお味噌汁でも作りに行ってらっしゃいな」
亜美は、改めてこのエイリアンのような母親をまじまじと見つめた。この人は、何を言っているのだろう。何が言いたいのだろう。
「やくざだよ。危ないよ……」
「でも、あなた、その人のこと好きなんでしょう」
亜美は、この母親の首を締めたい衝動に駆られつつ叫んだ。
「そうよ。好きよ。好きよ。大好きよ……まさきさんは、私のこと分かってくれる。私、まさきさんが、好き」
「何を言っているの。おやめなさい」
「いや。いやあ」
「やめて頂戴」
母親はいつの間にか泣いている。……この人は妖怪だ、と亜美は思った。
亜美はどうしたらいいのか分からなくなる。この人といるといつもそうだ。

(P28 – P29)

非常に印象的なやり取り。主人公とまさきとの関係についてそれを辞めようとしているのは実のところ母親ではなく、どちらかというと「やくざ」という噂を信じている主人公のほうだということが見て取れる(まさきがやくざかもしれないというのはチャットルームの中での噂話であることが前頁にてかたられていて、その確認はされていない)。このあと、主人公とまさきとの関係は疎遠になってゆく。

ここで主人公がたたかっている相手というのは実のところ実在する母親ではなく内在化した母親なのだろう。だから「エイリアン」や「妖怪」ということばが自分を傷つけることばのようにみえる。泣いているのが母親であり、それをつめたく観察している主人公が「どうしたらいいのか分からない」と内省するくだりも印象深い。

物語が大きく進展するのは、中盤にてこうした過干渉の母親との暴力沙汰があり、母親が入院という体裁で、舞台から退場してからだ。実際のところはおそらく世間体を気にした父がふたりを同じ住居に住まわせることを辞めさせたのだろうと思われるが。

その後、主人公は自助グループの作業場で働きはじめ、収入をえる。それによってイエから離れる契機を得て、やがては三番目の男、北条との初めての恋愛関係を築いてゆく……というストーリーなのだが、母親が退場して、ようやく主人公が自立を決心し、それを実現してゆくながれがとても示唆的だった。

その物語の下には、引きこもりが変わる契機があるとすれば、どうしても「母親」と呼ばれるなにかをとりのぞくことが必要となる、という著者の理解が透けてみえる。その母親の存在は、「優しさ」や「甘え」や「自己愛と気づかれない保護欲」などと翻訳されるだろう。そのいずれもわたしたちにとってきわめて身近な猛毒である。

そうした著者の示した理解は、上述した大衆作品において元引きこもりの主人公たちが、みずからの牢獄的存在と決別するためには、「異世界」という死後の世界へと旅立たなければならなかったこと、そしてそこでしか救済されなかったことを想起させる。

◇ ◇ ◇

われわれの生活において「転生」なるものは不可能かもしれないが、みずからを閉じ込める牢獄なるものの正体をつきとめることは可能である。それは本邦では「イエ」と呼ばれるなにかであり、葉山はそれを「籠」と書いている。そこから出ることは不可能ではないにしろ容易なことではない。それはみずからの肉体(ことば)こそがその牢獄をつくっているという困難な認識をえることでしかなしえないからだ。

本作において主人公はそれをなしとげたが、その後の彼女がどうなったのか。それはだれにもわからない。そこに希望をみるか否かは、読者にゆだねられるだろう。

(2018年10月5日)

葉山美玖『籠の鳥』書籍情報
籠の鳥
発売 文芸社
発行 2012年
著者 葉山美玖(はやま みく)
価格 900円+税

市川つた『月の罠』

汀のない仮象の浜に、七億の砂礫がふきよせる。

◇ ◇ ◇

本日は木曜日。今日も秋らしい穏やかな天気だった。

さて本日の詩集は市川つたの『月の罠』。本書は某誌から書評を依頼された時に頂いたもの。当時は原稿枚数制限のため詩の引用がほとんど出来なかったため、本稿では全面的に書き直しを行った。

さて、それでは本書へ。著者は一九三三年静岡県生まれ。詩集に二〇一一年『白い闇』、二〇一二年『つれづれ想』、二〇一四年『虫になったわたし』などがある。本書は著者の十二冊めの詩集であり、三章構成。百二十頁に四十編を収める。

詩、「行間」から。

行間の絡まりが
怪しげな甘みを出して誘う
噛んで噛んで口中一杯噛み続ける
旨味と蜜を探し続ける

子供の頃つつじの花を引き抜いて吸った
まだ葉に包まれた芽花を裂いて
味のない白い穂を噛んだ

すかんぽに塩をつけてすっぱさを食べた
若いおおばこを塩もみして噛んだ
筍の皮に梅干しを包んで吸った
戦中戦後の
そんな事が次々思い出されて――

行間は緑の中に揺れている
何にもなかったころの
忘れてはいけない
そんな遊びが有ったということ

「行間」第一、二、三、四連

行間は書かれないもの、白い紙面に文字を埋めることによってのみはじめて見出されるうつほの別名だと思うが、それが詩を書く行為になぞらえられている。書くことによって忘却の闇の中に沈んでいた子供の頃の記憶が引き上げられているのだが、それが行間と名付けられていることに新鮮な驚きがある。

「行間は緑の中に揺れている」ものであり、見えるはずのないもの。見えないことそのものに、詩がかたちを与えている。届かぬ空白(記憶)に対する渇望と、空腹という生理的な渇望の、切実な複数の願いが重ねられ、思い出したかったが、いままで一度も思い出せなかった記憶がひらかれている。それは歩いてけして楽しい道ではないのかもしれないが、書き手にとってはやはり必要なことなのだろうし、読者にとってもそのような行間があるということを思う。存在しない道を見出し、歩くということ。

穴があったら入りたいと思う
無い穴に落とされることも有る
むかし人は洞窟に暮らした
戦中の防空壕だって穴
隠れ皆殺しになったのも穴

時々穴の底に潜んで青空を眺める
まん丸い月が蓋をする
夜空を仰ぐと月は空の穴
その穴に囚われて見つづけている

芥川賞受賞作「穴」を読む
得体のしれない動物が草叢に穴を掘る
人がちょうど嵌るほどの
這い上がれない深さの穴

濃厚な草の匂い なだらかな土手
穴の底に窮屈そうに膝を抱く
仰ぐ空は星がまたたき
覗き込む月光は草叢の穴と
月の穴に梯子をかける

「月の罠」第一、二、三、四連

標題ともなった詩「月の罠」は好きな詩だ。「行間」と同じように、存在しないが、周辺を埋めることによってのみ存在しうるものがここでは「穴」と呼ばれ、それが空に浮かぶ巨大な欠損としての月と対比され、遠く離れたふたつのうつほを詩がつないでいる。

地の穴には人間の悪意、愚かさ、野蛮さが捨てられていて、詩はその穴を外から眺めるのではなく、その中にとどまりながら空を見上げている。その穴は残酷な外の世界から命を守るものでもあり、または想像力を育むものでもあるはずだが、それは避けようものない暴力からは守ってくれるものではない。なぜなら穴は空虚として、「得体のしれない動物」も含め、さまざまなものをそのうちに呼び込んでしまうからだ。

私の海には汀がない
打ち返す波がない
ひたひたと揺れ
足許から広がっている

幻の砂浜を抱いて
石塊から小石になり砂利になり
砂になって私を拒んでいる
水平線は傾いて淡い光を放っている
夕焼けに未来と過去が惹き合って

引き裂かれた人がいて
並んで足を投げ出し沖を見つめ
小学唱歌を口ずさんでいた
灰紫にくれてゆく空に
仄かな茜色の魚影を追って
故郷の方角を見ている

「いわし雲」第一、二、三連

ふたたび存在しないものをめぐる詩。ここでは汀もなく、波もなく、浜辺もない、無限に広がる茫洋とした海辺がえがかれている。どこまでもひろがる想像力による青に、小さく白い文字や記憶がうかぶ様子が「いわし雲」と呼ばれている、と読んだ。

だが、存在しないものをめぐって足許からひろがる詩は、不穏なものを第三連で呼び寄せてもいる。それは本詩集の全ての詩編に漂う傷の記憶、それも戦火の痕跡だということを感じる。それはとてつもなく巨きく、とてつもなく恐ろしいなにかなのだろうが、第三者がそれについて具体的にかたることはできない。書くことによって見出される空虚は、必ずしもうつくしいものばかりが住まう場所ではないのだ。

◇ ◇ ◇

最後に、わたしが本詩集でもっとも好きな詩を紹介したい。

なにかを書くとき、そこにはいつもわたしがいて、そして無限の距離を超えた先に読者がいる。読者とかたりあうことはできない。読者とわかりあうことはできない。読者とめぐりあうこともできない。

だが、それでいいではないか。書くことはひとり、生きることもひとり、死ぬこともひとり。詩は、そんな世界をいっさい変えようとすることなく、仮象の海の前にしてみずからを水面に投じる。波にあらわれた流木が波にゆれている。「すべてを捨てたい」と願わないものがいるだろうか。そして詩はついに読者へとどくのだ。

わたしがいる あなたがいる
あなたがいるその向こうに大勢のわたし
あなたの後ろにも 大勢の人たち わたしたち
悲しんだり喜んだりする
捉えきれないわたしが目を伏せていたり
両手を上げていたりする

人生の一瞬を泣いたり笑ったりしながら
合わせ鏡の中でふる里遠く流れ
津波のように引き浚われたりしながら
過去から現在へと目まぐるしく繰り返されて
虹を見 光芒を見 風も花も落葉も懐に入れて
残照の中のシルエットになり立っている
道は細く長く道の峠には
大樹が風に向かって立っている
光景は少しずつ足元から薄らいできて
茜雲は西空に消えた

裏返しのわたしを
角だった気持ちを宥めて海に向かって放つ
旅立つわたしは海風に煽られて何処までも浮遊する
あなたに向かって少しずつ気力も体力も失いつつ
身を任せて波のまにまに自分を確保回游して
過去はわたしの着衣 持ち切れないものを捨て
欲しかったものを断念し悟ったような顔をして
なおすべてを捨てたいと願っている

「真っ白い流木」第一、二、三連

(2018年10月4日)

市川つた『月の罠』書籍情報
月の罠
出版 歩行社
発行 2017
著者 市川つた(いちかわ つた)
価格 1500円+税

三角みづ紀『舵を弾く』

だれもいない真夜中に、ひとりぼっちの車がもえる。

◇ ◇ ◇

本日は水曜日。秋が深まる。十月らしい天気だ。

さて本日の詩集は三角みづ紀の二〇一五年発行の詩集、『舵を弾く』。著者は一九八一年鹿児島県生まれ。二〇〇四年『現代詩手帖』投稿欄の年間最優秀作品に与えられる現代詩手帖賞受賞。同年、第一詩集『オウバアキル』にて第十回中原中也賞受賞。他、二〇〇六年『カナシヤル』、二〇〇八年『錯覚しなければ』、二〇一〇年『はこいり』、二〇一三年『隣人のいない部屋』など著作多数。本書は五章構成、小分けされた章は「泥濘」「生没同日」「枝垂れる」「クラシックラジオ」「かなでるひと」と名付けられ、百十頁に三十五編を収める。

さてそれでは、いつものように一般読者と同じ目線で、三角の詩に出会ってみよう。巻頭詩「呼ばれる支度」から。

うつぶせで いのちを研ぐ
あおむけで 見開いたまま
屋根って、きれいね

息をするには
どんな布でもよくって
いたむ星を包んだ

そうやってあたためていると
熟した実が、屋根をたたいて

耳はすまして、
呼ばれて、
瞬間、瞼から生まれる

あおむけで 見開いたまま
わたしたち いのちを研ぐ

「呼ばれる支度」第一、二、三、四、五連
第一章「泥濘」内

うつぶせがそのままあおむけであるような存在が想像される冒頭。それはどこか男女両性の、手足が二組、顔が二つずつあるアンドロギュノスを思わせる。そして間をおくことなく、その瞬間わたしたちは屋根を見てもいる。接合、分断、跳躍……がたった三行に凝縮されている。

もう少し詳しく読むと、繁殖、出産、赤子をおおう布、卵、身体に降りそそぐ雨などのイメージが重ねられ、題名も合わさって、これは卒啄同時の祝福についての詩なのかも、ということを考える。だがおそらくそれは生物学的な繁殖ではなく、詩を研ぐということ、性をひとつの身体のなかにふたつ保ったままいのちとしてのことばを繁茂させてゆくことなのだろうと読んだ。こうした書き方は詩以外にはまず不可能だという驚きと納得がある。

わたしは目前で、ひとがしんだとしてもけっして驚かないのだ。その呼吸を確認するつもりはないし、おそらくのことはあるがままである。自らがしんだとしても動揺しないことはわかっている。なんとつめたいことか、騒ぎたてるのは周囲であればよかったし、できるなら海葬にしてほしいときめた。事務的にすりつぶした骨をひどく事務的に知らない海岸線にまいてほしい。わたしが、生前、愛着もなにも持っていなかった名前も知らない海面にまいて、それからひとびとは何事もなく帰宅してお茶やらアルコールやら飲んで、一夜あけたら仕事へでかけるだろう。そのひとびとがしんだとしても驚かないでほしい。毎朝、薬缶を火にかけるような日々であればよい。毎晩、他人をにくんだりあいしたりすればよい。
ひとびとは大地を割れない。

「この家」第一連
第一章「泥濘」内

ひとがしんでもわたしは驚かないのは、「愛着もなにも持っていなかった名前も知らない」ものたち囲まれているからだろういと最初は読めたのだが、ひとが「ひとびと」へ転換され、わたしという個人的な存在の独白から、より広い場へとこぼれてゆく連を読みかえすと、し(私/死/詩/知)が、この家を離れて名前のない海へと広がっていくうつくしいイメージを得られる。ひとは大地を割ることができないので、海はえいえんにそこにある。いかなる名付けも拒否したまま。

夏至も過ぎたけれど
真昼に灼けた地面に
空から打ち水が降り
ようやく、夜となる
そうして、朝を待つ

はげしく―――ゆるやかに
瞬間に立つ―――ひとびと
生きることに慣れないまま
かさなる月日が去っていく
束の間に―――かがやいて

いつか果てるとして
今年も きみと並び
花火を見上げている
きみに うつりこむ
花火を見上げている

「定点観測」全文
第二章「生没同日」内

とても好きな詩。生没同日、は、うまれたしゅんかんにいのちを落としたものであり、「きみに うつりこむ」花火は、うまれたものたちがながれつく先の水面にうつる花火と読むことができる。あるいは「きみ」はすでに空におり、なにも反射しない空虚に光がさし、その不可能な反射に詩がかたちを与える、とも読める。けして声高にかたられてはいないのに、感情のバイブレーションが短い詩連からほとばしる。

(ずいぶんと雑多な庭で
感情はふしだらに波及
アスターもたんぽぽも
われもこうも水くさも
かぞえきれないくらい
何度でも、しぬ)

だれもいないと
信じて
真夜中に舞う
意識があらゆる上半身を揺らし
ちっとも根づかない
わたしは かなしい
だれも いなくとも
わたしは かなしい
信じることのできる
わたしたちかなしい

「木曜日、乞い」 第三、四連
第三章「枝垂れる」内

乞い、ごい、こひ、恋、来い……何度でも死ぬものたちが真夜中にあつまる。アスターとたんぽぽと吾亦紅と水草が同時に存在する不可能な場が詩と呼ばれていて、それがすぐに死ぬことが了解されている。それを信じることはかなしい。

意識が上半身だけを揺らすならば、下半身は忘れられ、つまり足が庭にあり、踊りを舞うときその足裏が踏みつけて殺しているものが忘れられている、とも読める。よってなにひとつ根づかず、そこに深い悲しみが満たされている――が、それは「わたし」だけのものでなく、「わたしたち」のものであり、それは読者にひらかれたかなしみだ。そこに特権的なものなどなにもない。

あたらしいわたしの国は
えんえん雨が降っていて
いまにも折れてしまう枝
起きたら中庭の車も炎上する

時折、
じぶんに
あたらしい名前を
つけたくて
逃亡者として移住する
わかっている わたしは
ほんとうはやさしいから
身体の空気を冷たくして
ほんとうは全て憎みたい

あたらしいわたしの人と
春になったら森へ行く
ほら、あの病院の近くの。
あなたが提案したのでしょう。

「つめたい珪砂」第三、四、五連
第四章「クラシックラジオ」内

えんえんと降る雨は子供の涙を連想させる。乳幼児は大人には意味がわからないままよく泣くが、大人は意味があると信じこんでいるだけで、大人もまた実はただなんの意味もなく泣いているだけなのかもしれない。

珪砂は、ガラスの原料となる白色粗粒の砂。つめたい砂は、幾千億に分解されてしまったなにかで、元のかたちはエントロピーの法則によってえいえんに失われている。そんな砂に雨が降る光景がみえる。あたらしい国にはあたらしい名前が必要だと書き手は考えるが、それをえることはできないことがあらかじめ示唆されている。あたらしい街にいってもあたらしいわたしはえられない――というよりもあたらしいものなどどこにもないからだ。ただ砂は流れ、雨は降り、どこかの中庭で車が炎上している。

たくさんのへその緒は
つらなって
無表情のひとびとを縦断する

導線だっていうことは
わかっているのだから
なぞることはしないが
揺らしてみれば
重なって
ふるえる

わたしたちを奏で
奏でられるままに
これからつながる
わたしたちの動機

車内は涼やか
座席に深く落ちていく――

「ストリングス」第二、三、四、五連
第五章「かなでるひと」内

命をつなぐへその緒が管楽器の道具になぞらえられている。おそらくはバスの中にいるのであろう書き手は、車体(肉体)の中でつめたく閉じ込められながら、相対的な世界に対してなぜか・・・動きつづけている、そういう様子がえがかれていると読める。「導線」はひとの魂がうごく道、またはひとがいきる動機がはこばれる「動線」なのだろう。

わたしたちはすでに母体から切断され、へその緒は乾燥しきってただのモノになっている。そんな切断された宿命を弦楽器と読みかえて詩をかなでる――そうした強靭な意図を、本詩集から読みとればよいだろうか。

◇ ◇ ◇

本詩集でもっとも好きな詩は、上でも紹介した「木曜日、乞い」をふたたび挙げておきたい。だれも、いなくとも……のあとは、読者がみいだすのである。

だれも いなくとも
わたしは かなしい
信じることのできる
わたしたちかなしい

「木曜日、乞い」

(2018年10月3日)

三角みづ紀『舵を弾く』書籍情報
舵を弾く
出版 思潮社
発行 2015
著者 三角みづ紀(みすみ みづき)
価格 2000円+税

野崎有以『長崎まで』

ふるさとは遠いのではない。それはいつでもここにある。

◇ ◇ ◇

本日は火曜日。よく晴れ、穏やかな秋の一日。

今日の詩集は野崎有以の『長崎まで』。著者は一九八五年東京生まれ。二〇一五年、『現代詩手帖』詩投稿欄の年間最優秀作品に与えられる現代詩手帖賞受賞。二〇一六年発行の本詩集にて第二十二回中原中也賞受賞。本詩集は詩編十二編を九十六頁に収める。

中原中也賞の選考では、「全篇行分けの散文詩であり、作者の語りたい欲求の切なさが詩の内容の芯となっている。架空の町の架空の自伝とも読め、しかも演歌調の語りが戦略的。詩的にならないで詩の言葉になっている」とあった。

「詩的にならないで詩の言葉になっている」という選評を解説するならば、いわゆる・・・・詩的なものをつかわずに詩のことばをつくっている、ということだと読めるが、ひとまずはいわゆる詩的なるものは詩と同じものではない、という選評の観点に留意しつつ、読みはじめてみよう。

巻頭詩「ネオン」から。

「珍しい夜景を見せてあげよう」
そう言って男は私を旅行に連れて行った
着いたのはホテルの高層階だった
あたりに高い建物はなく
工業違いがただひたすらのびていた
初めて来たけれど懐かしい場所だった
平たい工場が一面に広がり
煙突からは煙が出て夜空に雲をつくった
雨を降らせるんじゃないか
反射するあてのないネオンがときどき海に映った
薄明かりのなかで遠くの山がぼんやりしている
男は得意になって自分のものではない夜景を自慢した
私はこの男と出会ってから
合成樹脂のように汚れをはじく隙のないかぐわしい生活の指定席券を
生まれたときからもっていたふりをした
だけど結局
ふとんをかぶって泣いてばかりだった
仕事は出来るが不器用で
毎晩帰って一人で晩酌をしているせいで
首のあたりが恒常的に上気したあなたと
一緒になったらよかったのかもしれない
あなたは必死で隠していたけれど
何かの拍子に出てくる訛りに
私の故郷が見え隠れしたのです

「ネオン」第一連

いわゆる詩的なるものを排除するために、行分け詩と散文詩のちょうど中間に位置する体裁が選択されていると読める。余分なものがなく、華美な装飾は省かれ、実用的な文体によってかたられる私小説的なはじまりがある一方、第一連の終わり近くにて「男」であったはずのはいつのまにか「あなた」へと変貌し、日常的なことばにて平易にかたられていたはずの時空間が歪み、詩がその亀裂から展開されてゆく。

小説的な書き方であれば男との記憶にさらに別の第三者――ここでは父だと思うが――の回想がそれとわかるようななんらかの文体の変化を経て重ねられるところなのだが、詩ではそこに解説をいっさい入れることなく、そのまま挿入されている。そこに詩のおもしろさ、難解さがある。

「男」と「あなた」が別人物であるらしきことは、旅行先としてはかなり奇異に感じる工場地帯のホテルの最上階の予約などの逸話から示唆されているが、男に父をみ、父に男をみる構図をつくりだすための装置なのだろうとわたしは読んだ。そして逆に同一人物であったとしても、わたしたちのことを思い起こせば、ふだん一緒にいる相手に複数の第三者を見出してしまうことはごく普通のことだ。詩はそんなわたしたちの複雑な在りようをあらわしている、しかもきわめて日常的なことばで(「詩的にならないで、詩の言葉になっている」)。

昼下がりの電車のなかで
中吊り広告の女優だけがけだるそうな感じでこっちを見ている
彼女を美しいと思う気持ちと拒絶する気持ちがぶつかった
冷たく気の強そうな女性だった
電車のなかで感じる彼女の視線を
うつらうつら席も立たずにかわしていた

夜更けのJR田町駅
駅近くの運河にかかった橋の上で
早く駅に行けばいいのに
ざらざらした橋の欄干に頬杖をついて運河を見つめていた
流れる運河は風が砂場遊びのくまでになって
嘘みたいな流れをつくっていた
少し前まで私は一人でバーにいた
バーボンを何杯か飲んだあとにマンハッタンが出てきた
赤いカクテルのなかで恍惚の表情を浮かべて
サクランボがひとつ沈んでいた
マンハッタンはきっと夕焼けの綺麗な街なんだろう
帰りがけにバーテンダーにマンハッタンがおいしかったと告げると
「リトル・プリンセス」
というカクテルの名前が返ってきた
エレベーターのドアが閉まると出てくる涙を両手でおさえた

「女神」第一、二連

昼の電車、夜更けの田町、その前のバーと、書き手の時間と場所がずれてゆく。改行によって第一連と二連の間にはなんらかの場面転換があることが明示されているが、第二連の最後の三行にはちょっとした仕掛けというか謎があるように思える。その前の部分が相対的に理解しやすいことと比較すると、そこには見えない改行または詩連が隠されているのかもしれない。

ふたつのカクテル「マンハッタン」と「リトル・プリンセス」をなぜか注文した客が間違えていることについての違和感は、そこにかくされただれか別の注文者を想像すれば足りる。それは第三者またはバーテンダー自身なのかもしれない。また、バーテンダーがわざわざ客の間違いを伝えることについての違和感は、そのバーテンダーがその特定の客についてなんらかの理由に基づく悪意を持っていた、と解釈することができるかもしれない。

そのいずれについても、詩はかたることなく省略を行っている(詩の合評会などであれば、さまざまな解釈がされ議論になりそうな部分だ)。その省略、跳躍が魅力をつくっているということを感じる。「エレベーターのドアが閉まると出てくる涙を両手でおさえた」というとき、そこにはなんの解説も、説明もなく、その理由もかたられない。ただひとつづきの出来事たちだけがそこにある。それこそが現実だ、という声がきこえる。書き手にとって詩はつくりものではない、という声も聞こえてくる。

「女神」は次のような連につづく。

終電近くになってやっと電車に乗った
前にいた乗客が立ち上がって降車すると私はそこに腰かけた
うなだれる身体を腕組みするように両手で支えた
顔を上げるとあの中吊り広告の女優が私を見下ろしていた
車内の蛍光灯が白く反射して何の広告なのかよくわからなかった
それは大事なことではないのかもしれない
彼女はバーテンダーの機敏な腕のなかでゆっくりと楕円形を描きながら
撹拌される氷のようにうるんでゆらゆらしていた
相変わらず冷たい表情をしていた
その冷たさは海の群青のようだった
しかしこの日は強くて美しい人に見えた
濃い睫毛は雨に濡れているようで
彼女の唇はいまにも動きそうですらあった
この人をなかなか受け入れられなかったのは
強くなれない自分がうとましかったからなのかもしれない
美しいけれど品はない
場末の酒場にいても違和感はない
それでも私は彼女に惹かれた
人の顔とは一体何なのだろう
転んでしまいそうな心を吹き飛ばしたりしない顔を
女神と呼ぶのではないか
降り際に中吊り広告のなかの彼女がほしくて
ポスターの前で手のひらを広げてさっと結んだ
小さい頃
欲しいものがあるとこんなことをよくやった
欲しいもののちょっと手前で手のひらを大きく広げて結ぶ
こうすると欲しかったものをどこかにしまえる気がした
結んだ手のひらの前にあったものの多くは
大人になってちょっと働いたら簡単に買えてしまうものだった
私は何を取り損なったのだろうか
プラットホームに降りると
水の入ったペットボトルとちりとりとほうきを持った二人の駅員が
酔っ払いの吐瀉物を片づけていた
一人の駅員はベテランでもう一人は若い駅員だった
早朝に押し掛ける勤勉なサラリーマンたちのために
言葉も交わさずに掃除をしていた
この二人だって勤勉な人々であるはずだ
私は軽く息を止めて
女神がとどまっているかもしれないこぶしを握りしめながら改札へ急いだ
改札ではろれつの回らない酔っ払いが
「のりこし精算」という言葉をうっかり忘れてしまったがために
自動改札機を通してもらえないでいる
腹の底から笑ってしまうほどみじめな街じゃないか
でも
たぶんこれでいいんだ

「女神」第三連

「ネオン」でもみられた、複数の存在を同じ対象に重ねながら離れさせる手法がここでも取られている。「女神」はバーテンダーが準備したグラスの氷に映る自分自身の姿と重ねられ、女神を電車で見出すきっかけとなったと思われるある直接的な出来事はかたられることなく(だがその欠如によって詩全体に漂う、理解されることへの穏やかな諦念が心地よい)、さまざまなモノに映り込む自分自身の姿と記憶が、大量生産され電車のあらゆる場所に貼り付けられているとある名前を失った女性の写真を通して詩にあふれだす。それは二〇一八年においては、ありとあらゆる場所で無限に拡散されつづけることばたちのなかから意味のある「このわたし」を探しだす、見出す、とりもどすという意志を指し、それが「女神」と呼ばれているのかもしれない。

◇ ◇ ◇

最後にわたしが本詩集でもっとも好きな詩「鉄板のかいじゅう」を紹介する。
わたしは知らなかったが、「ポンポン菓子」は米でつくるポップコーンのようなものらしく、つくるときにポンと破裂音がするそうだ。わたしは思うが、作家というものは、かれ自身をうみだした音やことばから、完全に離れることはできないのではないか。ほんとうに架空のものなど、書けるはずもない。

そしていつも思うことだが、好きな詩ほど解説をしたくなくなる。ぜひ図書館や本屋などで手にとって全文の一読をおすすめしたい。

冬のはじめに風邪をひいて咳だけがなかなかとれなかった
一ヶ月以上たっても咳が出る場合は喘息の疑いがあるらしい
小児喘息にかかったことはあるかと聞かれ
喘息のことをやっと思い出した
私は子供の頃喘息を患っていた
医者はいくつかの質問をしてから
喘息がまた出たのかもしれないと言った
ベッドで横になって咳の出ない寝方をさぐりながら
いつかの夏休みのことを思い出していた

怪獣映画の怪獣の声は下駄で鉄板をこすって出しているのだと
近所に住んでいた夫婦が言った
何をして生計を立てているのかよくわからない人たちだった
どうでもいいようなことを何でも知っていた
子供にとってそういう人は魅力的だった
私はどうしても怪獣の声を出してみたかった
家近くの土砂堆積場の入口には
出入りする車を通すために数枚の鉄板が敷かれていたことをその時思い出した
夕方のちょっと手前の涼しくなった時間に
ポンポン菓子屋の車が土砂堆積場の横の空き地によく止まっていて
米と砂糖を持ってよく父とポンポン菓子を作ってもらいに行った
土砂堆積場に着くと
父は二段ぐらいしか積まれていないブロック塀の上に腰かけてたばこをふかしていた
私は座っていた父の高下駄を片方持って鉄板にこすりつけてみた
なんとも表現したがい間抜けな音が出た
怪獣と言えば怪獣なのかもしれないが
怪獣と言うよりそれは「かいじゅう」だった
かすれたような変な音で
弱そうなかいじゅうだった
下駄で鉄板をこすっていると汗がたれてきて
汗で下駄が滑って余計に音が出なくなった
怪獣の声を出したら子供がこわがるから
鉄板は間抜けな音しか出さないのだと父は言った
やがてポンポン菓子屋の車が空き地に止まった
かいじゅうの間抜けな声はポンポン菓子ができる音にかき消された
その日の晩にポンポン菓子を食べようとしたらまた喘息の発作が出た
発作が出ると父は私を負ぶって夜でも診てくれる診療所に連れて行ってくれた
じっとしているより父の揺れる背中のなかにいたほうが息が苦しくなったのだが
それは言えなかった
昼間なかなか怪獣の声を出してくれなかた土砂堆積場の鉄板が
月明かりに蒼く光って心配そうにしていた
明け方近くになって発作がおさまると父は寝る間もなくそのまま仕事に行った
大人は寝なくても大丈夫なのだと父は言った
ひとりで家に帰るとボウルに入った昨日のポンポン菓子がそのままになっていた
一日経って砂糖がべたっとしたポンポン菓子を誰もいない部屋で食べた

「鉄板のかいじゅう」第一、二連

(2018年10月2日)

野崎有以『長崎まで』書籍情報
長崎まで
出版 思潮社
発行 2016年
著者 野崎有以 (のざき あい)
価格 2000円+税